宗教以前2

 日本には、超自然的な、いわば「妖精」的な、あるいは「妖怪」的なものがたくさん存在する。鬼、天狗、化け猫、山姥などの他にも、河童だとか、「ざしきわらし」だとか。狐と狸の化かしあいなんてものもある。でも、どうして狐や狸にはそんな能力があるのだろうか。「鶴の恩返し」という民話があるが、鶴には一般的に人間に化ける能力があるのか、あるいはたまたまその鶴にだけその能力があったのか――そういうことを問題にしないところが、日本の特徴なのだろう。
 たとえばギリシャ神話とかキリスト教とかに関わりの深い地域の物語に出てくる超自然的な生き物はそれぞれの神々の系統に連なるものが多い。しかし日本においては河童が仏教や神道との関わりで説明されているわけではない。雪女も、宗教との関わりがあるとも思えない。日本の妖精たちは人間世界とは独立して存在しながら、しかも人間と非常に近い位置にある、と言えるだろう。
 それはアイルランドにとてもよく似ている。アイルランドの妖精たちも、どうして存在するのか明らかにされないまま、「ただ存在する」といったものである。彼らは人間の歴史や宗教とは関わりを持たず、しかも人間に寄り添って暮らしている。シェイクスピアの『夏の世の夢』にパックという妖精が登場して、人間たちにいたずらすることを自慢しているが、あれはアイルランドのプーカという妖精を借りてきたものだ。
 日本やアイルランドでは、妖精など超自然の者たちは、宗教が誕生する以前からこの世にあったのだろう。人類の歩みのなかでは宗教の歴史は意外に新しい、ということを考えると、超自然の者たちに親しみを感じる。宗教の助けを借りないで超自然の者たちとコミュニケーションが図れれば、こんなに素敵なことはない。その世界では、誰だって、死後に、怪物と妖精の中間みたいなものになれるかもしれないのだ。
 いや、そこでは「死後」という概念すら曖昧なのだ。私など、まだ死なないうちから、既に妖怪爺さんになったような気がしている。

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