私は修士を出た年に共立の専任教員になり、翌年から出身大学の非常勤講師を兼務するようになった。学園紛争の混乱からようやく脱した年で、新学期の始まりが六月まで遅れていた。以前から留年生の多い大学だったが(それがこの大学の紛争の一因ともなった)、紛争の煽りでますます留年生が多かった。
私が受け持った「一般外国語科目英語」の授業にも留年生がたくさんいた。まだ学部を出て三年しか経っていない私と同年か、あるいは私よりも上ではないかと思われる学生もいた。私にとっては、かつての上級生を教えなければならない、恐怖の授業だった。
最初の授業が始まってまもなく、顔中ひげだらけの、明らかに私よりも年上と思われる学生が、「先生!」と言って手を挙げた。
「あんたに先生と呼ばれたくないよ」と言うわけにもいかなかった。
仕方なく「はい、何ですか」と応ずると、「煙草を吸ってもいいですか」と彼は尋ねた。
一〇秒ほど、私は言葉を発することができなかった。
なんと答えればいいか? 「はい、いいです」と言えば、何人もの学生が煙草を吸い始めて、すぐに教室中が煙草の煙で満たされるだろう。「駄目です」と言えば「どうしてですか?」と切り返されるに決っている。
この学生は本当に煙草が吸いたいのか? ニコチン中毒か何かで、煙草を吸わずにはいられないのか? それとも、若い私を馬鹿にすることが目的なのか?
しかし、どちらにしても、授業中に煙草を吸うことは、それが学則に書いてあるか否かは別問題として、習慣上、そして倫理上、ありえないことではないか?
そこで私は、あれこれ考えないことにして、
「いいえ。我慢して下さい」
と答えた。
彼は、
「分りました」
と言って、それ以上は何も言わなかった。
私は腹の底からほっとした。
そして、この人は本当はいい人なんだ、と思った。