新聞に載っていたある高校の数学の先生の投書を興味深く読んだ。小学校では、分数の割算については、分母と分子をひっくり返して掛ければよいという「技術」を教えるだけで、そもそも分数で割るということがどんな意味を持っているのかを教えない、それぐらいなら、小学校で分数の割算を教えるのはやめてしまえ、というのである。「やめてしまえ」というのはいささか過激であるにしても、この投書は、学校というところは「技術」を教えるところではなくて「意味」を教えるところだ、という重要な主張を含んでいるように思われる。
なるほど意味を知らなくても計算の手順さえ知っていれば計算はできる。意味など考えているヒマに反復練習を徹底してやった方が能率的だ、というわけである。日本にこの考え方をシステム化した教育方法があって広く普及している。何年か前に、テレビのドキュメンタリー番組が、アメリカの多くの小学校でこの方法を取り入れるべきかどうかで論争があり、しばらく検討を続けた結果、いずれも取り入れないことになった、と伝えていた。私はアメリカでのこの決定を当然のことと受け止めた。意味を知らずに技術だけ覚えてもすぐに行き詰まることは目に見えている。あれほど世界に名高かった日本の算数教育がかげりを見せているのは、まさにこの点に原因があるのだろう。
学校というところは、小学校から大学まで、意味を教える、あるいは意味を考えさせるところである。能率など問題でない。受験だとか就職だとかのために能率主義に走るようなことがあれば、それはもはや学校とは言えない。
人工肥料ばかりに頼っているとはじめのうちは作物が豊富にとれるが、そのうち土地が疲弊し、砂漠化して、まったくなにも実らなくなるという。能率主義はいつか破綻をきたす。非能率に見えることが長い目で見れば結局いちばん能率がよいということは社会のあちこちで見られる現象である。
小学校の先生方には、分数の割算の意味をどう教えたらいいか、研究会を作るなりして検討していただきたい。そのことに全力を傾けていただきたい。比喩的に言えば、まさにその点に学校の命運がかかっているのである。