ルネッサンスやバロックの時代の音楽が、その時代の楽器およびその複製品(一般に古楽器と呼ばれる)で演奏されるようになって、もうかなりの年月が経過している。私もそれに興味を持っている一人である。
その古楽器の一つにフラウト・トラヴェルソ(トラヴェルソと略称されることが多い)がある。これは「横吹きのフルート」という意味で、要するにフルートなのだが、当時はただフルートと言えばリコーダーを指すのが一般的だったということらしい。
現代の金属製のフルートも木管楽器に分類されるが、これはトラヴェルソが木製であったことの伝統を引いているのである。
トラヴェルソは一般的にあまり音程がよくないとされ、そのため古典派のモーツァルトから好まれなかったそうである。それでもモーツァルトはこの楽器のために数々の名曲を残している。
そのトラヴェルソの製作では世界でも有数の名人と称される若い日本人製作家と話をしたことがある。彼は、彼が理想としているバロック時代に作られた名器の素晴らしさについて情熱をこめて語り、何とか少しでもそれに近い楽器を作りたいと日夜励んでいるのだと言って、いかにも寝不足そうな目をしばたたかせた。
そこで、次の会話。
「そのバロック時代の名器というのは、よほど音程がいいんですか?」
「いや、音程はむしろ悪いですね」
「音域がよほど広いとか?」
「いや、高音なんか、まるで出ない音もあります」
「音量が大きいとか?」
「いや、音量はむしろ小さめです」
「音色が美しいとか?」
「まあ、音色というのは好き好きで、一概には言えないものでして……」
「じゃあ、どうして名器なんですか」
「実は、それが分らないので、困っているんです」
名人はそう言って、いかにも苦しそうにうつむいた。
私は、そのとき、名器とはどういうものかを教えられたように感じた。