虚言の罪

 政治家で業者から賄賂を受け取る人が後を断たない。マスコミのどこかがかぎつけて、政治家本人に糺すことになる。そのとき政治家は「そんなことは絶対にしていない。天地神明に誓って断言する」と言ったり、「キミ、そんな根も葉もないことを言って失礼じゃないか。何を根拠にそんなことを言うとるんだ」と言ったりすることが一般的なようである。ところが、そのうちにその根拠なるものが続々と明らかになってくると、政治家は、「なにぶんにも昔のことなので、よく覚えていない」とか、「私自身は一切記憶にないが、あるいは秘書が勝手になにかやったかもしれない」とか、前とはだいぶニュアンスの異なる発言をするようになる。
 全ての政治家がこうだとまでは言わないが、ここで問題にしたいのは、日本人はこの政治家が本当のことを言うだろうとは少しも期待していないことである。たとえ「天地神明に誓って」と言っても、私たちは彼が真実を述べるとは思わない。全く、少しも、微塵も思わない。それがあまりに徹底しているものだから、政治家にしても、自分が嘘を言うことには全国民的な了解が得られていると考えるのである。事実、彼が嘘を言っていたことが明らかになっても、国民は、賄賂を受け取ったことには憤っても、嘘を言っていたこと自体にはとりたてて憤慨したりはしない。ああ、やっぱり、と思うだけである。
 ここで新約聖書の「ヨハネによる福音書」の冒頭の部分が思い出される。そこには「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった」とある。私はキリスト教徒でないのでこの言葉の解釈を知らないが、私は「言葉」というものの本質がすべてここで言い尽くされているように感じる。人間の始まりは言葉の始まりでもあった。人間を人間たらしめているのは言葉なのだ。言葉をおろそかにしたら、もはや人間ではないのだ。
 聖書を生み出した西欧社会においてはどうなのか、私は知らない。そこでは何よりも言葉が重視される、ということであってほしいと思うが、果たしてどうか。それはともかくとして、私は、日本社会がもう少し言葉を重んじるようになればいいと思っている。
 虚言の罪に対してもっと厳しい対応があってもいいのではないか。

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