指揮者

 プロのオーケストラでヴァイオリン奏者として活動している女性から聞いた話。
 ある指揮者は、ある日の公演で、演奏中に、指揮をしながら後ろに下がりすぎて、舞台から転落してしまったという。しかし彼は起き上がって、片手で指揮棒を振り、もう一方の手で腰をさすりながら、舞台端の階段まで歩いて、そこを上り、舞台中央まで行って、最後まで指揮を続けたとのこと。
 また、別の指揮者の話。
 その日はベートーヴェンの交響曲第六番「田園」を演奏することになっていた。その曲の冒頭は、まるでオーケストラが聴衆にささやきかけるような、軽く跳ねるようなピアニッシモになっている。
 しかし指揮者は、それをベートーヴェンの交響曲第五番「運命」の有名な出だしと勘違いしてしまった。それはダダダダーンという叩きつけるようなフォルテである。
 指揮者が両手を振りかぶるようにして指揮棒を高く上げた瞬間に、楽員のすべてが、これはまずいと思った。そして指揮者の動きは見ずに、コンサート・マスターを見て、無事に「田園」をスタートさせることができた。指揮者もすぐに自分の間違いに気づいて、あわてて「田園」に戻ってきたそうである。
 こういうそそっかしい指揮者もいるのだと感心した。
 こういう話を聞くと、クラシック音楽をとても身近なものに感じてしまう。
 そう、クラシック音楽は大衆芸能なのだ。

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