私が大学二年の夏に、社会党・総評が広島で原水爆禁止世界大会を開くにあたり、通訳・翻訳のアルバイトを募った。私はどうせ駄目だろうと思いながらそれに応募して試験を受けたところ、通ってしまった。不思議なことがあるものだ。
その結果、広島で夏の一週間を過ごすことになった。
国際大会が始まると連日のように会議があった。各国代表が会議の前日に一斉に演説原稿を出すと、それを私たちアルバイト学生が日本語に直す。日本代表の原稿は英語に直す。会議のときは同時通訳が原文と対照しながら翻訳を読む仕組みになっていた。原稿がなかなか出されないものだから、翻訳作業は徹夜になった。夜中過ぎになるとまったくの体力勝負になった。あちこちで居眠りをする者が出てくる。みんなが眠ってしまったら会議が開けなくなるから、主催者は必死で起しにかかる。私たちも腿や脇腹をつねったり一方の足で他方の足を蹴ったりして睡魔と闘った。朝になって翻訳原稿を出してしまうと、私たちは数時間の仮眠を取って次の原稿に備えた。
そういうさなかでのこと。私は広島市内の小学校の体育館で行われた分科会にオーストラリアの代表を連れて行った。彼はオブザーヴァーという資格でその会議に参加したのだが、来たからには演説したいと言うので、彼について演壇に上がった。私が通訳しなければならなかったのだが、うまくやれる自信がまったくなかった。彼のオーストラリア訛りの英語にはすでにじゅうぶん辟易していたのだ。演説の前に、私は、彼の耳に口を寄せて、もし自分の言葉を聴衆に伝えたければできるだけゆっくり喋れと脅迫した。
彼は、戦前には自分には五人の家族がいたがすべて日本軍に殺された、自分は日本への憎しみのなかで生きてきたが、ようやくその憎しみを克服しつつある、共に平和のために闘おうと呼びかけた。彼が言っても聴衆にはなんの反応もなかったが、私が下手な通訳をすると、わっと反応がきた。彼が演壇を降りると泣きながら彼に駆け寄って抱きつく人が続出した。
私は通訳には通訳の喜びがあるということをそのとき知った。