得手・不得手

 誰にだって得意・不得意の区別はある。したがって、仕事にせよ趣味にせよ、自分の得意な分野から選ぶことになる。
 それはいいのだが、なにをするにしても、そのなかにも相異なるさまざまの要素がからんできて、そこまで得意・不得意で取捨選択することはできない。
 野球で言えば、バッティングと守備とは全く別な能力が必要とされる。私は若いころに柔道をしたが、立ち技と寝技では、これでも同じスポーツかと思えるぐらいに異なる「技術」を必要とする。立ち技も寝技も同じぐらいに得意という人は、オリンピックに出るぐらいの選手でもなかなかいないようである。
 議論とか雑談とかの話し合いに例をとれば、そこには聞くことと話すことの二つの要素があって、これらはまったく正反対の作業である。当然、「聞き上手」とか「話し上手」とかがあるわけだが、どちらにしても、上手でない方もきちんとこなす必要がある。そうでないと議論も雑談もうまくいかない。それはキャッチボールで、ボールを投げる技術と受け取る技術がまったく別であるようなものだ。投げるのは得意だが受け取る方はどうも……などと言っていてはキャッチボールが成り立たない。例えばテレビ討論などを聞いても、一人でしゃべって他人の言うことを聞こうとしない人がいて、司会者が困っている、という状況をよく見る。
 論文を書くとき、そこに求められるのは、多くの情報を集め、それらを分析し、そこから独自の結論を引き出す、というプロセスである。しかしながら、情報を集めることと論を立てることとはまったく別の作業で、学生はもとより、研究者も、どちらが得意かに分れる。この二つをどれだけバランスよく行っているかで論文の評価が決まる。
 なにをするにしても、相異なる能力をバランスよく発揮することが求められる。そのための訓練をどれだけやったかで全てが決ってくるように思われる。

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