私は、死刑は廃止されるべきだと考えている。
しかし、しばしば耳にする死刑反対論者の反対理由に同調することはできない。
少なくとも私が知りうる限りでは、死刑に反対する人たちの反対理由は、それが残虐であるということ、そして、それは犯罪の抑止につながらないということ、さらに、無実の人を冤罪によって死に追いやる可能性があること、の三点であるように思われる。
これらの意見は、どれももっともで、反対するいわれはない。但し、これらの意見は、刑罰というものの本質を見ていないという点で、まったく取るに足らないものである。これを言い出せば、あらゆる刑罰は廃止されなければならない。
刑罰は、どんなものであれ、残虐であるところに存在理由がある。自由を拘束するだけでも十分に残虐の名に値する。また、刑罰はそもそも犯罪の抑止効果などを目指したものではない。犯罪はある意味で人間の本性に根ざしたものであるから、刑罰を重くしたからといってこれを減らすことはできない。また、罪に対して罰があるのであって、罪のない人を対象にすることはそもそも罰の想定しないことである。
今さら言うまでもなく、「目には目を、歯には歯を」で代表される思想は人間社会を維持するための最も基本的な倫理観と結びついている。身内を殺害された遺族が、犯人を死刑に、と要求するのは、正義の履行を求めているのである。これを多くの死刑反対論者が単なる復讐心としてしかとらえないために、死刑制度に関わる論議は進展してこなかったのだ。
では、私が死刑に反対する理由はなにかといえば、これがあまりに単純であっけないほどである。
それは、体罰の延長線上に死刑があるのであって、体罰を廃止しておきながら死刑を残すことには論理的に矛盾がある、ということに尽きる。体罰を廃止するのであれば、その前にまず死刑を廃止すべきだったのだ。それが順序というものである。
「百叩き」というものを体罰の象徴的な例としてあげるなら、恐らく、鞭なり棍棒なりで百回叩かれれば大概の人は死んだだろうと思われる。即死を免れたとしても、特に医学が未発達だった過去においては、それが直接の原因となって遠からず死ぬことが多かっただろう。つまり、体罰とは、多くの場合、「ゆるやかな死刑」にほかならなかったのだ。ゆるやかな方を廃止して、なぜ厳しい方を残したのか。
今でも、禁固刑、懲役刑などよりも体罰をもって対処した方がよいのではないかと考えたくなる種類の犯罪がないわけではない。そうした考えを全否定しておいて死刑だけを認めることは理屈に合わない。
何事によらず、理屈に合わないことはやめた方がいい、というのが私の結論である。