演技について

 テレビをつけてある場面がパッと目に入ったとき、それがドラマか、あるいはドラマでないのか、すぐには分らないときがある。でも、そこに映っている人が、ちょっと体を動かしたり、ほんの一言でも喋ったりすると、すぐにそれが分る。どんなに役者が優れていても、演技には実際とは違うと思わせるものがあるようだ。
 しかし、いかにも実際そのものという演技を我々が望んでいるかどうかは疑問である。歌舞伎をひきあいに出すまでもなく、むしろいかにも演技らしい、つまりわざとらしい演技をドラマに望んでいるのかもしれない。役者のなかには、え、これでも脚本に書いてあることを喋っているの? と疑いたくなるような自然な喋り方をする人がいるが、そのことで特に名声を獲得するということもないようだ。
 いつだったか、劇場で日本の現代劇を観ていたとき、母親役を演じていた和服姿の中年の女優が、つつっと舞台の袖まで歩いていって、階段の下から二階にいる息子を呼ぶという思い入れで、上を向いて息子の名を呼んだことがあった。そのとき、観客がどっと笑ったので、私はびっくりした。それはとても深刻な場面だったのだ。そして、私も笑った一人だったのだ。なぜ笑ったのか。私は芝居そっちのけでそのことを考えていた。
 その女優は名優の誉れの高い人だった。その日の演技も極めて優れていた。どう考えても演技をしているとは思えない、というほどの名演技だった。言ってみるなら、あきれるほどの名演技で、そのため観客はあきれて笑った――ということなのだろう。彼女が階段の下から息子を呼んだとき、観客は、本当に舞台の袖に階段があるかのような錯覚にとらわれたのだ。そして、次の瞬間、そんなところに階段があるはずがない、ということに気づいて、自分の錯覚が滑稽に感じられたのだ。観客が笑ったために深刻さが損なわれたことは事実である。恐らくその女優には、なぜ観客が笑ったのか理解できなかったことだろう。つまり観客は、芝居にはいかにも芝居らしい演技を求めているということになる。
 絵画でも、あまりにリアルで、ちょっと見ただけでは絵なのか写真なのかわからない、というとき、そこに滑稽を感じるということがあるのではないだろうか。リアリズムというのは、所詮、作り物につけられたレッテルなのだ。つまり作り物であることが分るということが重要なのである。そこのところをきちっと理解している俳優が本当の「名優」なのだと思う。

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