粗大ゴミ

 私の家の近くのバス停にエアコンが捨ててあった。壁に取り付ける部分である。バスを待つ人の列の足元にエアコンがあるというのは奇妙な光景だった。しばらくそこにあった後になくなったが、どういう経過でそれがなくなったか私は知らない。捨てた人はそういう目立つところに捨てればいつか撤去されるだろうから、山道のような目立たない場所に捨てるよりは良心的だと考えたのかもしれない。私はバスを待ちながら捨てた人の心理に思いをはせたのだが、結論に達する前にバスが来て、うやむやになってしまった。
 道端にテレビや洗濯機やパソコンが捨ててあるのをよく見る。電気製品ばかりでなく、オートバイ、自転車、箪笥、食器棚なんてのもある。雨ざらしになってますます醜い姿になってゆくが、いつまでたってもそのままである。
 いつだったか、テレビで、夜中に車で来て道端に古いテレビや洗濯機を捨ててゆく人を赤外線カメラで写していたことがあった。いずれも普通の人だった。車で来るぐらいだから、別に生活に困っているというふうではなくて、また年代も二〇代から四〇代ぐらいの働き盛りの人ばかりだった。
 つまり、捨てる人は異常な人ではなくて、普通の人なのだということに、分ってはいたものの、やはりショックを受けた。それは会社員かもしれないし、商店主かもしれない。大学生、警察官、弁護士、医師、大学教授、政治家かもしれない。それはかもしれないし、あなたかもしれない。
 私たちは、他人が見ていなければどんなことでもする存在なのだろうか?
 日本人は自分の家はピカピカに磨きたてるがそれ以外の場所はどんなに汚れても平気だという話を聞く。しかし、私は、これは日本人だけの特性だとは思わない。ただ、外国(のある国々)では、そういうことに対する規制がはるかに厳しかった、ということだろう。たとえばシェイクスピアの父親は一五五二年に田舎町の通りにゴミを捨てたために一シリングの罰金を取られた、ということが記録に残っている。今から四五〇年も前にすでにこの厳しさがあったのだ。そういうことの積み重ねが今日につながっているということなのだろう。
 でも、それにしても、道端にテレビや冷蔵庫を捨てる心理というものが私には理解できない。

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