大勢の人を集めて、遠くから見ると文字(や、ときには模様)に見えるように並ばせたものを人文字と言う。学校のグラウンドに生徒を校章のかたちに並ばせて、それを校舎の屋上から撮影した写真が卒業アルバムに載ったりするのはほほえましいものだ。
また、大きな競技場の観客席などで人々に四角い紙を持たせてそれを掲げると全体として文字や絵になるように仕組んだものもときに人文字と呼ばれるようだ。一人一人に何枚もの紙を持たせて、合図に合わせてめくってゆくとそのたびに絵が変る、という高等技術もあるようである。それはときとして唖然とするほど見事なものだが、しかし、私はこの種の人文字が好きになれない。
オリンピックの開会式などで決まってやるマス・ゲームというものがある。大勢の人が集団でパフォーマンスを繰り広げるというものだが、これも私は好きではない。
つまり、誰かの指令によって大勢の人が「一糸乱れず」動く、ということが、どうも私の性に合わないようなのだ。前の人が右足から歩き始めたからといってどうして自分も右足から歩き始めなければならないのか。
観客席で紙をめくっている人には、自分たちがいまどういう模様を作っているのか見ることができない。見えているのは掲げている紙の裏だけだ。私にそれをやれと言っても、私はやらないぞ。
世界には全体主義に傾いているように思われる国がいくつかあるが、そういう国では人文字とかマス・ゲーム的なものとかがとりわけ好まれるようだ。多分、国の体質に合致しているのだろう。
全体として整然と見えるということよりも、個人個人がどう動きたいのかということの方がはるかに重要なことだと思うのである。人間は一人一人違うんだというあたりまえのことが、ともすれば忘れられがちになってしまうようだ。
個人として好きなように動きながら、しかも自分を含めた全体がどういう模様を形作っているのかがよく見える、そしてそのなかから自分がどう動くべきなのかを模索してゆく、といった社会を私たちは目指さなければいけないと思う。