昔のテレビ・コマーシャルに、何の広告だか忘れたが、アメリカ・インディアンの酋長がアメリカの大平原に一人で座って煙草をふかしながら「インディアン、嘘つかない」とつぶやくというのがあった。私はそれを見て、これが煙草の正しいあり方だと思った。
私は一〇年ほど千葉に住んでいたが、野菜売りのおばさん(というより、おばあさん)が、駅のプラットホームのいちばん端に自分の体より大きいかと思われる野菜かごを置いて、しゃがんでそれに寄りかかって、風に吹かれながら、放心したように煙草を吸っている姿をよく見かけた。そのたびに私は、煙草とは本来こうしたものだと考えた。
いったん飲み込んだものを吐き出すのは、それがなんであれ、無作法なものだ。煙草の煙だけが例外ということはありえない。それがそれなりに許容されるためには条件づけが必要になる。まず、一人でいること。一人でなくても他人から遠く離れていること。風が吹き渡る屋外であること。
テレビで興味深い映像を見た。欧米のどこかの三〇代後半の双子の姉妹の二枚並べられた顔写真だった。一人には二〇歳のころから喫煙習慣があり、もう一人にはまったくそれがない、ということだった。煙草を吸う方は五〇代(それも極めて不健康な)に見え、吸わない方は元気にあふれた二〇代に見えた。まるで親子の写真のようだった。教えられなければまさか双子だとは誰も思わないだろう。
煙草が大麻などよりも人体に与える悪影響が強いことはよく知られている。大麻所持で逮捕された人が「煙草が許されていて、なんで大麻が許されないんだ」と言うそうである。あまりにも明白なのは、煙草と同等の毒性を持った食品・嗜好品がいま考案されても、絶対に認可されないだろうということだ。では、なぜ煙草が禁止されないか。それにはいろいろ理由があることだろうが、煙草による巨大な税収入も国としては大きな魅力だろう。煙草を吸う人は、自らの(そして周囲の人の)健康を国に捧げているのである。
煙草を吸う人はすべてを承知し、すべてを覚悟して吸っているのだろうから、他人への心遣いさえ忘れないでいてくれれば、他人がとやかく言う問題ではない。
とは言うものの、誰であっても身近には健康を心配してくれる人が必ずいるのだから、できれば煙草をやめてほしいというのが私の願いである。