片づけなければいけない仕事があって、もう今日あたりそれをやっておかなければいけない、というときになっても、やっぱりそれをやりたくない、ということがある。まだ明日だってまにあう、よし、明日すればいいんだ、と考えると、急に気が楽になって、その日は幸福に過すことになる。このとき、「今日の自分」は「明日の自分」に仕事を委ねたのである。「明日の自分」はとにかく気前がよくて、大らかで、いやなことはなんでも引き受けてくれる。だから、誰だって、「明日の自分」とは仲良しで、とてもいい関係を保っているのである。
そして翌日になると、そこにいるのは「今日の自分」の他には「昨日の自分」だけなのである。仕事を引き受けてくれたはずの「自分」はどこを探しても見当らない。ああ、昨日この仕事をやっておけばよかった、そうすれば今日という日をどんなに快適に過せただろう、と思うと、仕事をしなかった「昨日の自分」が憎くて仕方ない。多くの場合、「昨日の自分」は、怠け者で、図々しくて、こんなにいやな奴はいない。まさに「昨日の友は今日の敵」なのである。「今日の自分」は決して「昨日の自分」を許すことができない。
途方にくれていると、そこにあの「明日の自分」がまたひょっこり顔を出す。そして愛想よく笑って、「そんなに心配することはないよ。その仕事は自分が引き受けてやるよ」と言ってくれる。「今日の自分」はその言葉を真に受けて、感謝に涙を浮かべながら、その日も幸福に過すことになる。
そして翌日になれば同じことの繰り返しである。
仕事ができる人というのは(それは私のことではない)、結局「明日の自分」をあてにしない人なのだ。仕事は今日やる他ないのである。そうすれば「昨日の自分」と憎みあう必要もない。昨日の自分と仲良くしながら、明日の自分とはできるだけ冷たい関係を保つ――それが仕事をするうえでの必要条件になってくるのである。
まあ、言うは易し、なのだが。