学生時代に、インドネシア語専攻の友人から、インドネシア語で「さようなら」は「スラマッジャラン」というのだと教わった。
それから二〇年ほどたったあるとき、私はインドネシア人と話をすることがあった――もちろん、日本語で。でも、その人と別れる瞬間が近づいたとき、私は苦しいほどに胸の鼓動が激しくなっているのを感じていた。生涯で一度あるかないかの決定的瞬間が近づいていることを知っていたからである。
その人が「さようなら」と言ったとき、私は一呼吸おいてから、努めてさりげない調子で、「スラマッジャラン」と言った。その人は目を見張って、「おや、あなたはインドネシア語が話せるのですか?」と言った。私は嬉しさと恥ずかしさで顔を赤くしながら、「いや、これだけ、これだけです」と言った。
その瞬間の歓喜を今でもまざまざと思い浮かべることができる。外国人に、その人の国の言葉で何か言えるなんて、なんと素晴らしいことだろう。私は一言だけだったが、インドネシア人とインドネシア語会話をした経験があると固く信じている。
外国語は単語一つ知っているだけでも幸福感を味わえるものだ。
だから、日本人が、英語が話せない、ということをまるで心の傷ででもあるかのように言うのを聞くと、私は妙な気分になる。だってあなたは英語を話せるじゃありませんか、と言いたくなる。単語や表現を一つ知っていればとにかくそれを使ってみればいい。そうすればひとつぶん幸せになれる。一〇知っていればそれを全部使ってみればいい。そうすれば一つぶんの一〇倍幸せになれる。ところで、どんなに単語を知らない人だって、普通に高校を卒業していれば一〇〇〇や二〇〇〇の英単語は知っているはずだ。これほどの「財産」を頭の中に蔵しながら、それを誇りに思うどころか、ただ引け目に感じているとすれば、こんなにばからしいことはない。誇りに思えば、その財産をさらに増やすために努力する気にもなるだろう。
知らないことを引け目に感じるよりも知っていることを誇りに思うように導く、ということが、いま日本の英語教育で最も必要とされていることかもしれない。