行司の権威

 大相撲の行司は勝敗を見極めて軍配を上げる役割を与えられている。しかし、土俵の周囲にいる五人の「勝負審判」(昔は検査役といった)がその判定を不服とすれば、協議してそれを覆すことができる。彼らが「審判」であるとすれば、行司はいったい何なのだ、ということになる。
 アメリカの大リーグの審判は「私がルール・ブックだ」と言っていかなる抗議も受け付けないという。例えば、スリーボールのあとの一球をバッターが勝手にボールだと判断して、審判がコールする前に一塁に向って歩き出そうとすると、審判が機嫌を損ねて、明らかなボール球なのにストライクの宣告をすることがあるそうだ。ジャッジするのは審判であって選手ではないということなのである。最近テレビで大リーグのゲームを見ることが多いが、私もその実例を目撃したことがある。でも、誰も文句を言わない。どんなスポーツでも審判の権威を認めることで成り立っているのである。しかし大相撲にあっては、「審判の権威」は行司ではなくて「勝負審判」に握られている。行司はあらゆる審判のなかで最も権威のありそうな服装をしていながら、実は最も権威のない審判ということになる。しかも彼らは若いときにその世界に入って、テレビに写るようになるまでにすでに長い行司経験を積んでいるのである。私は不思議な思いで彼らを見てきた。
 しかし、最近、見方が変った。それは、相撲はもともと神に奉納される神事であって、他のスポーツとは異なるものだと考えるようになったからである。行司はいわば神主のようなもので(事実、神主の衣装を纏っている)、軍配を上げるのも、「まつりごと」の一つの所作として行うのだ。どっちが勝ったか、などは、神の前では所詮レベルの低い話なのである。そういうことは検査役に任せておいて、自分は力士と神々とのあいだに立って神事を行うのだ、というのが、恐らく、行司の立場なのだろう。
 ものごとは視点を変えて見ると別なものが見えてくる、という点に興味が持たれる。なんだ、そういうことだったのか、と、目の前が開けるように感じるのである。
 私は、最近は、畏敬の念をもって行司を見ている。

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