大学改革

 最近、大学改革論議が盛んに行われている。これは大いにやるべきもので、皆で論議しながら大学をよくしていかなければならない。
 ただ、大学改革というと、すぐに英語教育が槍玉に上がって、結局そこで終ってしまう傾向があるように思う。このことが私には理解できない。
 英語教育批判といっても実に単純なもので、どうしてもっと役に立つ英語を教えないか、ということなのだ。役に立つ英語というのは、結局は英会話のことなのだ。そして、英語教師が自分に興味のある英文学などを教材に選んでいるのはけしからん、もっと一般的なものを教材にすべきだ、と続く。
 私が大学院生のときに全国的な学園紛争が起きた。私の行っていた大学も学生活動家によって封鎖され、私たちは先生の家に行って授業を受けた。社会には紛争に呼応して大学教育批判が巻き起り、多くの「有識者」たちが新聞紙上などに意見を発表した。そのときも、話はすぐに英語教育論議になり、そしてそこで終ったように思う。議論の内容も現在とまったく同じものだった。
 私はその翌年に大学の専任教員になり、今日にいたるまで三十年以上を、旧弊で頑迷な(そして無能な?)英語教師として過してきた。
 私は、英語教育など、大学教育の抱えている大問題のなかでは、どうでもいいことではないか、と思う。そんなに気になるのなら、語学教育などは街の語学学校に任せて、大学からは取り外してしまえばいいと思う。
 教育でいちばん大事なのは、モティベーション(動機づけ)ということである。なぜ勉強するのか。それをはっきりさせなければ、教育はなりたたない。小・中・高でも同じである。しかし、小・中・高では、そのモティベーションを「上級学校の受験のため」ということだけで済ませてきた。だから上級学校を受験しない生徒はまったく勉強する目的が見出し得ないし、大学に入ってしまった者は、大学院でも目指さない限り、勉強する理由がない。また、最近では少子化のために大学が入りやすくなって、大学選びでうるさいことを言わなければ、特に勉強しなくても大学に入れる時代になってきた。なぜ勉強するのか、が、ますます分らなくなってきている。実は、教える側にもそれが分っていないのである。
 最近の高校卒業生には進学も就職もしない者が増えているので、高校の進路指導がやりにくくて仕方ないそうだ。中学校では暴力沙汰が絶えない。小学校では「学級崩壊」という現象が起きている。未成年者による、目を覆いたくなるようなむごたらしい犯罪事件が頻発している。教育問題は、特に日本のように極めて多くの若者が大学に進学するような国の教育問題は、すべて「一繋がり」なのだ。全体の教育問題のなかで大学教育を考えなければならない。それなのに、大学教育だけを別の文脈で考えて、まるで大学を会社に入るための予備校のようなものとして考えている人が多い。
 このままでゆくと、学級崩壊どころか、国家崩壊になりかねないような事態なのだ。いつまで寝言のようなことを言っているつもりだろうか。

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