大学二年の夏休みに、広島での原水爆禁止世界大会で通訳・翻訳のアルバイトをした。八月六日の広島原爆記念日の前後数日間にわたって国際会議が開かれ、私たちアルバイト学生はむちゃくちゃに酷使された。
八月の広島の暑さは殺人的だった。こういうなかで原爆が落ちたのかと思うと慄然たるものがあった。
私たちは原爆ドームのそばの宿屋をあてがわれたが、国際会議場までを往復する道すがら、街路樹も街中を流れる川も林立するビルディングも、激しい陽射しのなかで燃えているように見えた。
その時、突然、あまりにも分かり切ったことながら、この明るい色彩のなかで原爆が落ちてきたのだ、という強い思いに打たれた。
そのころはようやくカラー・テレビが出回り始めたころで、まだまだ白黒テレビが主流だった。写真もほとんどが白黒フィルムで、たまにカメラ好きの学生がカメラを学校に持ってきて、「おおい、これにはカラー・フィルムが入っているんだぞ」と言うと、「え、カラー? 撮って、撮って」と言って大勢の女子学生が群がったものだ(女子学生の注意を引くにはこれがいちばん効果的だったようだ)。だから、目にする写真のほとんどが白黒写真で、戦時中の写真などは白黒を通り越してセピア色になっていた。当然、原爆が落とされた直後の広島の記録写真もセピア色で、原爆の惨状はセピア色のなかに封じ込められていたと言ってもいいだろう。私の頭の中でも原爆とセピア色とは分かち難く結びついていた。しかし、そのとき私が感じたのは、そうじゃない、原爆はこの総天然色のなかで落とされたのだ、ということだった。
関東大震災も、日露戦争も、つまり、遠い過去はすべてセピア色である――写真の世界では。テレビ・ドラマで、回想シーンだけが白黒の映像になることがある。そうすると、いかにも遠い記憶の世界を見せられているような気分になる。これは、「過去は白黒」という固定概念をうまく利用しているのである。しかし、この固定概念はむしろ錯覚と言うべきだろう。たとえいつの時代であっても、「現実」はすべて天然色なのだ。そのあたりまえのことを、私たちは古い写真を前にしたとき、つい忘れがちになる。過去が現実とは違う次元のものであるかのような錯覚に陥りがちになる。セピア色のなかでの苦しみや悲惨さは、「現実」とは別物のように思いがちである。しかし、それは間違いだ、ということを、私は広島の街中で痛感した。
誰だって自分の記憶はカラーで保存しているはずである。戦後すぐの、日本が貧しかった時代の子どもたちの写真がよく新聞に載ったりテレビに映ったりする。当然のことながら、白黒である。しかし、そこに写っている子どもたちの一人であった私の記憶では、そこには貧しいなりに豊かな色彩があった。一〇〇歳を越えるお年寄にしても、子ども時代の記憶や父母の面影などはカラーで脳裡に焼き付けているだろう。記憶のアルバムは、いつだって全部カラー写真なのである。
白黒写真にカラー写真とは違った独自の美しさがあることは否定しない。しかし、それはそれとして、過去を白黒写真と結びつけることによって、意識からそぎ落とされてしまうものもあるのではないか。
夏になると、私は今でもあのときの「衝撃」をついこのあいだのことのように思い出す。