親分子分

 テレビのインタビューなどで、スポーツのコーチが選手について、「この子は初めから見所のある子だと思っていました」などと言っているのを聞くと、とてもいやな気分になる。コーチと選手の年齢差が十歳に満たない場合でも、「この子」とか「あの子」とかいう言い方をするのが、むしろ普通なようだ。選手に対してわが子に対するのと同じような愛情を抱いているのだ、という言い訳もあるだろうが、そして、そういう場合も確かにあるだろうが、一般的に言えば、それは違うと思う。
 私は、高校の若い教員が、生徒のことだけでなく、自分よりも若い教員のことを、「あの子は……」と表現するのを聞いたことがある。また、他の大学に非常勤講師として行っているとき、三十代半ばの女性の準教授が、三十歳ぐらいの男性の講師のことを、「あの子はよく勉強する子で……」と言っているのを聞いたことがある。
 自分より若い人、あるいは目下の人を「子」と表現するのは、自分の方が断然上の立場だと言いたいのである。それは、本人が意識しないまでも、自分を「子」と対比されるべきもの、つまり「親」として捉えたいという潜在的願望があるからである。
 他人同士を親子の関係で捉え直すのは、人間関係を親分子分の関係に置き換えようとしていると言える。これは、はっきり言ってしまえば、やくざの思想である。
 そう、日本の人間関係の根底にはこの思想(と言うのも大袈裟だが)があるのだ。親分子分であるからには、子分には絶対服従が要求される。選手がコーチに逆らうなどは考えられない。逆らえば殴られるかもしれないし、「グラウンド十周!」などという罰が下されるかもしれない。そのために体を壊して選手生命が断たれても、誰もかばってくれない。
 何年か前、ある女性の水泳選手がアメリカ留学から帰って、日本のコーチを痛烈に批判する文章を新聞に発表したことがある。なぜ日本のコーチはこれほど威張るのか、なぜあんなに怒鳴るのか、人間としては、選手と対等ではないか――といった内容だった。そして今、別の女性の水泳選手が、オリンピック代表に選ばれなかったことで、抗議だの提訴だのと騒ぎを起している。彼女もアメリカ暮しが長い。アメリカで暮すことによって、日本のコーチの「親分肌」の欺瞞性が分ってしまうのだろう。この選手がオリンピック代表に選ばれなかったことが妥当かどうか、私には(そして恐らく誰にも)判断できない。しかし彼女の怒りの根底には、この日本的人間関係への怒りがあるのだろうと私は想像している。

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