教養とは

 大学に入った年に、一般教養科目の「経済学」を履修した。それまで興味を持ったことなど一度もない分野だったが、担当の伊東光晴教授の名講義のおかげで、とても面白く聴くことができた。「限界効用逓減の法則」について、「饅頭を一つ食べてうまかったからといって、もう一つ食べると、やっぱりうまいんだが、始めのほどはうまくないんですね。もう一つ食べるとさらにうまくなくなる」と話されたときの先生の嬉しそうな顔が忘れられない。その後、あるビールの宣伝文句に「最初のうまさが持続する」というのが現れたとき、「限界効用逓減の法則」を知らないんだな、と私は考えた。
 「比較生産費説」の話もよく覚えている。役割分担をすることが生産能率を上げるうえでいかに有効か、ということを、黒板で計算例を示しながら先生は論証された。そして、経済理論としては正しいが、これは植民地支配を正当化する理論として利用された、と言われた。目からウロコが落ちるとはあのようなことを言うのだろうか。ある側面から見れば正しいが、別の側面から見れば容認できない、ということはあるのだ。私は先生の書かれた岩波新書の『ケインズ』を買って熟読した。ヴァージニア・ウルフがその一員であった「ブルームズベリー・グループ」について初めて知ったのはこの本によってだった。
 私は文学に興味があったので、一般教養科目の「文学」を勇んで履修したが、この講義の担当教授は、古い講義ノートを持ってきて、それをゆっくり朗読して学生に一語一語書き取らせる以外には何もしない人だった。私は筆圧が異常に強いので、五分も書いていると指が痛んで書けなくなる。どうしてプリントにして配ってくれないのかと恨みに思いながら、あるとき、指を休めていたら、彼は突然私を見て、「おい、そこの学生。書かないでいいのか。書かないと、あとで泣くことになるぞ」と言った。私はその日限りでこの授業を放棄した。こういう体験をしながらも私が文学への興味を失わなかったのは奇跡としか言いようがない。
 教養とはなにか、という問いかけに私はうまく答えることができないが、例えば伊東先生によって与えられたものが私の教養だ、と私は考えている。私は経済学の道を選ばなかったので、経済学はその後の私の人生に具体的な利益はなにももたらさなかったが、私の「ものの見方」のある部分を構成していると自分では勝手に考えている。視野を広くして、人間性を拡大の方向に向わせるもの、それが教養だ、と一応言っておこう。
 それがいったい何の役に立つんだ、と言う人があるとすれば、私はその人とは話をしたくない。何時間話をしても、ついに共通の理解は得られないだろう。
 いったい、役に立つとか立たないとか、どこで判断するのか。つきつめて言えば、人生など役に立たないものではないか。役に立たない人生に、人間的な意味を持たせるもの、それが教養というものだと言うこともできるかもしれない。

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