火事

 わが目を疑う、といった経験をすることがある。
 四月のある日。
 その日は上天気だった。正午を少し回ったころに、私の乗った京王線の電車が高尾駅に滑り込んで行った。電車はすいていた。私は座席に座って、ぼんやり前を見ていた。
 高尾駅の京王線のプラットホームは細い道を隔てて住宅地に隣接しているので、すぐ目の前に民家の二階が見える。
 電車がプラットホームに入って行って、ほとんど停車しそうになったとき、ひとりでに目に入ってきた光景を見て、私は、これは夢ではないだろうかと思った。
 私のすぐ目の前の民家の二階が、なんと窓から赤い炎を噴き出して燃えていたのである。火事につきもののけたたましい雰囲気など少しもなかった。明るい太陽のもと、静まりかえった住宅地で、一軒の家の二階が、そこだけ怒り狂ったように燃えている、ただそれだけのことだった。
 プラットホームにおりて、電車が去ったあとも、私はしばらくそこに立って、火事を「見物」した。煙ももうもうと上がっていたが、それよりも炎が激しくて、いまにも家全体が崩れ落ちるのではないかと思われるほどだった。
 夜空を焦がして燃えるのと違って、真昼の、それも上天気のもとでの火事には、火事の生々しさとかどぎつさが希薄なように思われた。それはいっさいの現実性や世俗性を剥奪された豪華なページェントのようだった。
 すぐに消防自動車が来て消火にかかったが、放水が始まるまでにずいぶん時間がかかるものだということを知った。
 消防士が燃えさかる家のなかに入って行って、家財を外に放り投げたり、家の一部を壊したりしていたが、家人らしい人の姿はなかった。おそらく、家中で外出していたのだろう。
 私は両隣の家に燃え移るのではないかと心配したが、消防士も、他の人も、特にそのために何かをするということはないようだった。火の激しさとは裏腹に、あたりには奇妙な静けさが漂っていた。
 プラットホームにたくさんの人が集まってきた。駅員も「全員集合」といったところ。それは火事場見物の特等席のようだった。
 いまでもその家は黒く焼け焦げた姿をさらしている。
 しかし、いまでも、あれは夢だったのではないか、と思うことがある。

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