サッカーのワールドカップ出場が決って、日本中が沸きかえっている。スポーツファンの私も、嬉しくない訳がない。しかし、なんだか手放しで喜べないものも感じている。
私が子供の頃は――それはつまり終戦から一〇年間ぐらいのことだが――スポーツは特別な意味を持っていたように思う。ボクシングの白井義男がフライ級の世界チャンピオンになったときは、日本中が興奮した。確か五回ほど防衛したが、その防衛戦の何週間も前から新聞(スポーツ紙ではなくて朝日新聞のような一般新聞)が毎日のように白井と挑戦者の様子を克明に伝えて、国民の期待を高めて(煽って?)いった。白井はノックアウトで勝ったことが(恐らく)一度もなくて、いつも判定勝ちだったが(ある挑戦者が「白井のパンチでは蝿も殺せない」と言ったのは有名な話)、子供心に、たとえ判定ミスでもいいから白井に勝ってもらいたい、と思ったことを覚えている。日本中がそういう気持ちだったのだ。
水泳の古橋の活躍にも日本中が興奮した。「フジヤマのトビウオ」なんていう(比喩として無茶苦茶な)彼のニックネームを思い出すと、今でも胸が熱くなる。
それから、プロレスの力道山もいた。当時はプロレスが真剣勝負だと信じられていて、朝日新聞の一面に「力道山勝つ」などと大見出しで出たくらいである。たまたまそれがテレビ時代の始まりの時期でもあったので、私も興奮に体を震わせながら街頭テレビに見入ったものだ。
つまり、当時のスポーツは、戦争に負けて打ちひしがれていた日本人を励まし、奮い立たせるという重要な働きをしたのである。それはスポーツの持っている「効果」に違いない。しかしそれは同時にナショナリズムに傾く危険性を持っているということを私たちは忘れるべきでない。戦後のような特殊な状況は仕方ないとしても、平常に戻った今日では、応援もほどほどに、という節度を持つべきである。
スポーツは国の威信とか名誉とかをかけて行うものではない。ある国の国民は、サッカーなどで自国が優秀な成績を収めると、テレビなどでインタビューされて、「この国の国民であることを誇りに思います」と答えることが多いようだが、日本人はそんなことは言わない。それは日本が文化国家として成熟しているからだろう。
一九六四年の東京オリンピックで柔道が初めて正式種目として採用されたとき、それまでの柔道では日本がダントツに強くて、オリンピックでも当然日本が全階級で金メダルを取るだろうと信じられていた。ところが一番大事な無差別級で神永という選手がオランダの選手に決勝で敗れてしまった。彼の敗北感・挫折感は測り知れないものだっただろうが、彼は畳の上で自ら相手の選手に大きく歩み寄って両手で相手の手を握り締めて勝利を祝福した。これが国民としての誇りというものである。その後の柔道選手の中には、負けると相手が手を差し出しているにもかかわらずプイと横を向いてそのまま畳を降りてしまう選手がいるが、これこそ国の恥というものである。
いま、かつては外国のサッカー狂の別名だと思われていたフーリガンとかいうものの真似をした日本人の集団が、国際試合の度に外国に出かけて行って、空港に着いたときから馬鹿騒ぎを繰り広げている。マスコミが面白がって取り上げるものだから、調子に乗っているようだ。しかし、国際試合は国際親善の域を出ないように注意しなければならない。日本国民がこぞってフーリガンになってしまったら、そのときは恐ろしいことになるぞ、と私は思うのである。
今度のサッカー・ワールドカップが平穏に終わることを祈っている。