能力

 お年寄りがなんだか危なっかしい足取りで歩いているのを見ることがある。まっすぐに歩けないものだから、道幅を最大限に利用してジグザグに歩いたりなどしている。そういう姿を見ると、とかく若い人は、あんな歳になるまで生きていたくない、とか、ちゃんと歩けないんだったら家にいればいいのに、とか考えたがる。でも、私ぐらいの歳になってくると、少し違った見方をするようになる。
 私は、人間のすることは、すべて「能力」という観点から見たらどうか、と最近思うようになった。たとえまっすぐ歩けなくても、とにかく「歩く」ということは大変な能力なのだ。いったん歩けなくなった人から見れば、それは遥かな憧れの能力なのである。我々はいつその能力を失うかもしれない。それを失いかけている人が、なんとかそれを失うまいと努力し、また、まだ完全にそれを失っていないことに喜びを見出しているとすれば、それを皮肉な目で見ることは誰にも許されないだろう。
 能力は、それを失ったときに、あるいは失いかけたときに、初めてそれが能力であったことが理解されるものかもしれない。たとえば、不眠症に陥った人が決って言うのは、眠るということも一つの能力だったんだ、ということなのだ。授業中に居眠りばかりしてきた人も、やがて、かつての自分はなんとすばらしい能力に恵まれていたのだろうかと思い返す日がこないとも限らない。
 テレビを見て楽しめる、というのも一つの能力である。やることがないので一日じゅうテレビを見て過した、と言う人がいるが、その能力も、やがて失われる日がくるかもしれない。今のうちにたくさん見ておこう。
 四季の移り変りを見てしみじみする、というのも一つの能力である。人と雑談したり、おいしいものを食べて嬉しくなったり、親しい人の笑顔を見て心が慰められたり、昔のことをじっと思い出してみたり、流れる雲を見上げてその形の変化を観察したり、庭にくる小鳥を見てその愛らしさにほほえんだり、というのもすべて能力である。そして、たとえ寝たきりになろうとも、なにかしら一つでも能力を持っていれば、その人は人間らしく生きていると言えるのだと思う。
 まして、歩ける、ということは、なんとすばらしいことではないか。私は歳をとったら、どんなによたよたしようとも、歩ける限りは外に出て、歩く喜びを味わおうと考えている。
 そして、そのときにならなければ分らない人生の真実というものも、必ずあるに違いない。

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