酔っ払い

 いつだったか、九段下から神保町へ向う道を歩いていると、道端に一人の男がうずくまって、しきりにわめいていた。通行人に大声で怒鳴りかけるものだから、みな怖がって、そこを迂回するようにして足早に通り過ぎていた。見ると、それは若い西洋人で、まだ昼前だというのに、明らかに泥酔していた。外人の酔っぱらいというのもめずらしい、と思いながら私はそこを通り過ぎた。
 それから一時間ほどして、私は再びそこを通った。するとパトカーが止っていて、数人の警察官がその外人を取り囲んでいた。立っているところを見ると彼は警察官たちよりも頭一つは背の高い大男だった。彼は英語で「弁護士を呼んでくれ」とくりかえし叫んでいた。さすがに外人の酔っぱらいは言うことが違う、と私は感心した。でも、そこを通り過ぎようとしたとき、警察官たちが彼の言っていることが理解できずに困惑していることが分った。そこで、我ながらおせっかいなことだと思いながら、「弁護士を呼んでくれと言っているんですよ」と教えてあげた。すると、警察官は、まるですがりつくように私を引き留めて、「ちょっと通訳してもらえませんか」と言う。気は進まなかったが、これもおせっかいの罰だと観念して、通訳の労をとることにした。
 警察官たちは、通行人からの通報で駆けつけて、職務質問をしようとしているところだった。しかし外人は、警察官に取り囲まれたものだから、てっきり逮捕されるものと思って、それで弁護士を呼べと言っているのだった。彼はオーストラリアから職を求めて来日したものの、職にありつけずに困っているとのことだった。彼は逮捕されないと分って安心したか、急に警察官に悪態をつきはじめた。私は途中まではそれを通訳したが、すぐにあほらしくなってやめてしまった。すると彼は通訳しろと迫る。私はむっとして、警察官が紳士的に振舞っているのに、そんなことを言って恥ずかしくないのか、それがおまえの国のやり方かと言った。すると彼はシュンとなって、なにか職を世話してもらえないだろうかと私に言うのである。知るものかと私は言った。
 私がその場を離れようとすると、警察官の一人が、私に名刺をくれと言う。警察官に名刺を渡すのも極めて気が進まなかったが、断る理由もないので渡した。
 その日の夜に帰宅すると、家の者が、今日ぐらいびっくりしたことはないと言う。なんでも、電話がかかったので出ると、「こちら、神田警察署です。入江和生さんという方はお宅のご主人でしょうか」と言ったので、てっきり私が交通事故に会ったと思ったそうだ。そこで説明を聞いたけれど、何のことかよく分らなかった、とにかくしきりにお礼を言っているので、交通事故ではないらしいということは分った、と家の者は言った。
 今日の話も、要するに何の話か、よく分らなかったね。

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