衝撃・その二

 K先生は自ら教壇に立って簡単に私を紹介すると、学生の席の最前列の中央よりやや右寄りに座った。私が教壇に立ってみると、私から三メートルも離れていない。そこは近すぎますと文句を言うわけにもいかない。
 いくらあきらめの悪い私でも、事ここにいたっては、観念せざるをえなかった。私はギリシア神話については素人である旨を断ってから、講義に入った。
 喋り始めてしまえば、もうひたすら喋るだけのことだ。私はK先生のことはなるべく考えないようにして、喋り続けた。本当は、なるべくK先生を見ないようにしたかったのだが、あまり近くにいるものだから、まっすぐ前を見ていても視野に入ってしまう。
 K先生は、まるで学生の一人であるかのように、真剣に私の話を聴き、せっせとノートを取っていた。それは私には恐ろしいことではあったが、しかし、私の低俗な心の動きとはかけ離れた崇高な精神が彼には宿っていることが感じられて、そのうち私は、指導教授に研究発表を聴いてもらっている学生のような気分になってきた。そうなると、心がすーっと落ち着いてきて、もう何も不安を感じなくなった。そればかりか、私は一種の愉快さをも感じるようになった。
 しかし、そこで、私を再び衝撃で打ちのめすような「事件」が起きた。
 学生はとても静かに聴いていた。眼をつぶって話せば、誰もいない部屋で話しているかのような錯覚にとらわれたことだろう。
 しかし、そのうち、いちばん後ろの列のいちばん端に座っていた二人の学生が、ひそひそと私語を交し始めた。
 そして、いつまでたってもそれをやめる気配がない。
 恐らく私語を交している当人たちには想像もつかないことだろうが、教室が静まりかえっているときには、ひそひそ声だって驚くほどよく通るのである。
 教室には、私がマイクを通して喋る声と、その二人のひそひそ声とがえんえんと流れ続けた。
 私は話しながら、それが気にならなくはなかったが、こういう状況で注意を与えるのも気が引けるから、なるべく気にしないようにしよう、と自分に言い聞かせていた。
 K先生は、二人が喋り始めたときに、身をよじるようにして後ろを振り返り、二人をきっと睨んだのだが、話に熱中している二人がそれに気づくはずもない。その後もK先生は一分おきぐらいに身をよじって二人を見ていた。私は、心の中で、先生、どうぞそんなに気になさらないで、と呼びかけていた。実のところ、学生の私語よりもK先生の動きのほうが私にはよっぽど気になったのである。
 そういう状態が十分以上も続いただろうか。K先生が突然立ち上がったのだ。私もびっくりしたが、教室中の学生たちも(私語に熱中している二人を除いて)一斉に彼に注目した。なにしろ彼は最前列に座っていたのだから、いやでも目に入ってしまうのである。
 彼は学生席のあいだの通路を教室の後ろの方にゆっくりと歩き始めた。なぜかその手には一冊の本が抱えられている。私は喋りながら、そして学生たちは聴きながら、目だけは彼を追った。
 K先生は教室のいちばん後ろまで行くと、壁沿いに歩いて行って、私語を交している二人の背後に立った。二人はそれに気づかず、依然としてお喋りに熱中している。私は先生が彼女たちに小さい声で注意を与えるものと思っていた。しかしそうではなかった。先生は、抱えていた本を両手に持ち直すや、まるで剣道の素振りをするように高く振り上げて、今まさにお喋りしている方の学生の頭の上に、はっしとばかりに打ちおろしたのである。
 ボン! という鈍い音が教室中に響きわたった。
 そのとき私の話が五秒ほど途切れてしまったのは、私の胆力のあり方からして、仕方ないこととしなければならないだろう。
 驚愕して振り返った二人を、K先生は恐い顔で睨みつけた。そしてまた静かに歩いて最前列の席まで戻ると、なにごともなかったかのように、再びノートを取り始めた。
 私はいまでも講義をしながら、そのときのK先生を思い出すときがある。そして、そのたびに厳粛な気分になる。私は学問や講義の厳しさをそのときK先生から教わったように感じている。

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