衝撃・その一

 一つの題目について何人かの先生が一人数回ずつ講義をする形式の授業が最近では多くの大学にあって、「特別講義」とか「総合講座」とか呼ばれることが多いようだ。
 私も一〇年ほど前に、ある女子大学でこの特別講義の講師の一人になるように頼まれたことがある。共通題目は確か「古典」とか「古典を考える」とかいうものだったように思う。私には「二回にわたって、シェイクスピアに関連した内容で」という注文がついていた。
 そのころ、私はシェイクスピアとギリシア神話との関わりについて興味を持ち始めていて、少し調べを進めていたので、それについて喋ることにした。そう決心するまで、実は、かなり長いあいだ逡巡した。なぜなら、シェイクスピアについては一応それを専門にしていると言えたわけだが、ギリシア神話についてはただの門外漢でしかなかったからだ。ギリシア神話はそれ自体で堂々たる学問体系を成していて、素人がとかくの論評をすることははばかられたのである。
 しかし、とにかくそう決心した背景には、これを機会に自分のこれまでの考えを整理したいという思いと同時に、まあ、学生だってギリシア神話についてそう深くは知るまいから、私がさも専門家みたいな顔をして喋っても、誰も何とも思わないだろう、という横着な考えがあったことは否定できない。私は何がしかの後ろめたさを覚えながら、この題目を教務課に届け出た。
 そして、当日になった。私がその女子大学の講師室に行くと、すぐに白髪の上品な紳士が現れて、
「私はこの特別講義のコーディネーターをしておりますKと申します。本日はお忙しい中をご出講くださいまして有難うございます」
 と丁重に挨拶された。私はそれまでの学校とのやりとりで、K先生という方がこの講義の世話をしておられるということは知っていたが、お目にかかるのはその時が初めてだった。
 それからしばらくK先生と話をした。先生の丁重さが、私の後ろめたさを刺激して、私は辛い思いがした。
 K先生はそのうち「じゃ、私はこれで」とか言って立ち去られるのだろうと私は思っていた。しかし、先生はいつまでもそこにいる。私の心に、まさか、まさか……という恐ろしい不安がこみ上げてきたとき、先生は決定的なことを口走ったのである。
「私も先生の御講義を聴かせていただきますので、よろしく」
「えっ、それは困ります。私の話は先生に聴いていただくようなものではないんです。どうかそればかりはご勘弁ください」
「いえ、コーディネーターはすべての講義を聴くことになっておりますので」
「しかし、私の場合だけは……」
 と言っているうちに、授業開始のベルが鳴り渡った。
 K先生は立ち上がった。
「それでは教室にご案内します」
「いえ、自分で行けますから……」
 私の必死の嘆願も空しく、先生はさっさと先に立って歩いて行く。
 こうなっては、私も覚悟を決めざるをえなかった。
 まあいいや、K先生だって、ギリシア神話についてあまり詳しくないという点では学生と大差ないだろう。先生の専門は、どうせギリシア神話とは無関係の分野だろうから。私はそう考えて、一生懸命に自分の心を静めた。
 でも、いちおう先生の専門を聞いておこう、と私は思った。そこで、廊下を歩きながら、「失礼ですが、先生は何を専門にしていらっしゃるのですか?」と尋ねた。
 ああ、そのときの先生の答え!
 先生は言われた。
「ギリシア哲学です」
 私は衝撃のあまり卒倒しそうになった。あたまが真っ白になる、という表現が最近はやるようだが、そういう感じだったと言ってもいいだろう。
 そのとき、K先生は立ち止って、
「さあ、ここが教室です。よろしくお願いします」
 と言って、ドアを開いた。
 私は呆然としたまま、大教室の二〇〇人ほどの女子学生の前に立った。(続く)

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