何年か前のこと。ある朝、高尾駅構内の通路を歩いていると、通路脇に質素な身なりをした中年男性がいて、一心にハーモニカを吹いていた。よく若い人が道端でギターを弾いて旅行費用を稼いだりしているのを見かけるが、中年とハーモニカというのもあまり見かけない取り合わせだと思いながら、私はその前を通り過ぎた。
しかし、少し行ったところで、私は立ち止った。そのハーモニカの演奏があまりに素晴らしかったからだ。ハーモニカは誰にでも吹けるが、上手に演奏するのはとても難しい。彼の吹くロンドンデリー・エアの調べは、私の心に食い入ってくるようだった。これだけの技術を持ちながら、このような場所で演奏せざるをえない境遇を思うと、惻々として胸に迫るものがあった。
私はそこで、彼に「貧者の一燈」を献じることにした。私は小銭入れから百円硬貨を一枚つまみ出して(なんとケチな!)、彼に近寄った。
彼は少し身をくねらせるようにして吹き続けている。私はなるべく彼の邪魔をしないようにして、そっとお金を置いて立ち去るつもりだった。しかし、近寄ってみても、どこにお金を置けばよいのか分らない。当然、皿だとか空きカンだとかが彼の足元にあると予想していたのだが、いくら探しても、それらしいものは何も見あたらない。私は途方に暮れた。
そのうち、彼は演奏を中断して、
「何か御用ですか」
と私に尋ねた。
私は指につまんでいた百円硬貨を見せて、
「これはどこに置けばいいんですか?」
と逆に尋ねた。
彼は憤然とした調子で
「いや、そんなものはいりません。私はお金のために演奏しているのではないのです」
と言った。
私は自分が大変な失敗をしたことを知ってほとんどパニック状態になりながらも、必死の思いで、
「それでは、何のために演奏してらっしゃるのですか?」
と尋ねた。
彼はちょっと胸を反らすようにして、決然として答えた。
「芸術のためです」
私は脳天に雷を落されたような衝撃を覚えた。
「そんなこととは少しも存じませんで……これはとんだ失礼を……」
私は口のなかでもごもご言いながら、顔を真っ赤にして、逃げるようにしてその場を離れた。
それから長いこと、私はこの思い出に苦しんだ。思い出して笑えるようになったのは最近のことである。
でも、あんなところで、芸術のためにハーモニカを吹いているおじさんがいるなんて、誰に予想できただろうか?