全山紅葉して

 紅葉の美しい季節になった。京王線高尾駅のプラットホームから山を見ると、緑のなかに赤がまだらに織り込まれて、俵屋宗達か横山大観かの絵を見るような思いがする。
 この季節になると、「全山紅葉して」といった風景を見たいと思う。まだらでは物足らない、山全体が燃え上がるようでありたい。山を見ながらそう考える。
 しかし、春先、桜の季節には、山全体を桜の木にしてみたい、と決って思う。山全体が薄桃色に染って、春霞のなかにほのかに浮ぶようであればどんなにいいだろう、と、山を見ながら夢想するのである。
 先日の新聞で、鹿が増えすぎて樹木が危機に瀕している、という記事を読んだ。鹿が木の芽を食い荒すので、木が枯れて禿山になってしまう危険があるそうだ。
 こういう記事を読むと、日本中の山が禿山になったら大変だ、憎たらしい鹿を野放しにしておくことはない、なんとかして鹿の数を減らすようにしなければ、という思いに駆られる。
 しかし、テレビの動物番組などで鹿の可愛らしい姿を見ると、日本中の山に鹿がたくさんいればどんなにいいだろうと思う。木の芽だって鹿に食べられれば本望じゃないか、鹿の数を減らすなどはとんでもないことだ、という気がするのである。
 紅葉を見ながら桜を思い出すのは難しいし、木を愛でながら鹿の命に思いを馳せることも難しい。しかしながら、それをする必要に迫られることが、人生では、あるいは社会では、しばしばあるようだ。複眼的な見方は、ぜひ身につけておかなければならないものだろう。

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