洋服

 日本にいるアメリカ人女性とイチローの活躍について話をしていたとき、彼女が、「でも、野球はやっぱりアメリカ人の方が似合うわね」と言った。すぐには意味が呑み込めなかったが、野球のユニフォームのことを言っているのだと気づいた。それで私は、「それは野球に限ったことではなくて、背広だって女性の洋服だって、日本人よりは欧米人の方がよく似合うんです。それは欧米人の体に合せてそれらがデザインされているからで、それはつまり、日本が文化的に欧米に支配されているということなんですよ」と、あまりにもわかりきった説明をした。世界中の人が背広を着ているということは世界中が欧米の文化を受け入れているということで、それはいいとか悪いとかいう問題ではなくて、厳粛な事実として認める他ない。
 服装は一目見ればそうとわかるが、実際は服装などは大した問題ではなくて、目に見えないもの、つまり考え方だとか価値基準だとかのすべてにわたって我々は欧米様式を取り入れている、ということの方がはるかに大きい問題だろう。私はそれを残念に思っているわけではなくて、たとえば議会制民主主義というものを欧米から与えられたことは大きな幸福だと考えている。欧米諸国が民主主義を獲得するまでに払った血みどろの努力を思うと襟を正さずにはいられない。彼らはそれを自らの力で獲得し、欧米以外の国々はそれをただ譲り受けたのである。そこに決定的な違いがある。背広がアジア人に似合わないように、議会制民主主義もまだアジア諸国にしっくりなじんでいないような印象がある。せっかくの素敵な贈り物も、まだ十分に活用できていないということだろう。
 世界には未だに服装ですら欧米風を拒んでいる地域がある。そういう所では国という概念も欧米とは異なる場合が多い。「国民の意志」などという概念はそれ自体が欧米的なものである。選挙をするから民主国家なのではなくて、民主国家であってこそ選挙に意味があるのだ。形ばかり議会制民主主義を取り入れたために悲惨な結果を招いた例はいくらもある。
 日本はどうか。日本でも、かつては折詰弁当一つを貰ったからその人に投票する、などということが地域によっては珍しくなかったと聞いているが、今日では、いろいろ問題点はあるものの、なんとか選挙制度が正常に機能しているようだ。我々は必死にこれを守ってゆかなければならない。
 実のところ、年配者から見れば、最近の若者の体格が向上して、洋服だってずいぶん似合うようになってきているのだ。

次:五〇歳

目次へ戻る