夏休み中のこと。私は京王線の電車に乗っていた。とてもすいていて、立っている人はなかった。私の隣には二〇代半ばと思われる女性が座っていて、その向こう隣には太った中年男性が座っていた。
車内には一匹の小さな蛾がいて、うるさく飛び回っていた。私は蛾が決して好きではないが、それでも、蛾が人々からこんなに嫌われているとは知らなかった。それほど、蛾が飛んで行った先での騒ぎは大きかったのだ。特に私の隣の女性の拒否反応はすさまじく、蛾が飛んでくるたびに悲鳴を上げて、両手で頭を抱え込んでいた。
「蛾の一匹ぐらいで騒ぐでないぞ」と私は考えていた。
蛾は、何度目かに我々の近くに飛来したとき、隣の女性の足元の床に降りて、静止した。女性がそこからできるだけ足を遠ざけようとしたことは言うまでもない。
そのとき、彼女の向こう隣の太った中年男性がすっくと立ち上がった。そして、一、二歩移動してから、やにわに蛾を踏みつけた。
私はその解決の仕方に不愉快を感じたが、女性は感謝に満ちて中年男性を見上げて、小声で「有難うございました」と言った。
「うむ」と言うように彼は小さくうなずいた。それはまるで暴漢の手から姫君を救った時代劇のヒーローのようだった。彼は再び自分の席にどっかと座った。
その瞬間、床の上でじっとしていた蛾が、前よりも元気に飛び上がったのだ。
そのときの隣の女性の悲鳴は、あれは凄いものだった。「オエーッ!」とも「ギョエーッ!」ともつかない、はらわたを絞り出すような声だった。
私は前を向いたまま、笑ってしまった。太ったヒーローがどんな顔をしているか見たいと思ったが、なんだか気の毒で、見ることができなかった。
今日の話は、これでおしまい。