この夏はバルセロナ・オリンピックを大いに楽しんだ。しかし、テレビがやたらに「感動をお届けします」とか「感動の人間ドラマ」とか言うので、その分シラけてしまった。私が見たいのは「感動」ではなくて、「スポーツ」なのだ。
テレビ・カメラの操作にもいつも不満を感じていた。選手の顔のアップが多すぎる。スポーツを見ようとする者は、いつだって選手の全身を見ていたいのだ。顔の大写しをしたがるカメラマンは、競技中の選手の苦痛や緊張の表情を捕えることによって「感動をお届け」しているつもりなのだろう。そのために「決定的瞬間」をずいぶん見損なった。なぜなら、そのときテレビの画面には選手の顔しか写っていないのだから。
選手の言葉も、メディア関係者好みの言葉だけが繰り返し報じられて、私が本当に面白いと思ったものはあまり繰り返されなかったようだ。例えば、金メダルを期待されながら銅メダルに終ったある男子柔道選手が「おれより強い奴がいた、ただそれだけのことです」と言ったとき、私は、スポーツとはそういうものだろうと思った。また女子マラソンで銀メダルを取った有森選手が「最後のトラックを走っているとき、私の目の前を走っている一位の選手が、突然振り返って手をつないで一緒にゴールに入ろうと言ってくれたらどんなにいいだろう、と思いながら私は走っていました」と言ったときも、私はとても感動したのだが、これもジャーナリストの注意をほとんど引かなかったようだ。
結局彼らは感傷的な、あるいは愛国的な言葉を選手に期待しているのだろう。でも、そのどちらも、スポーツには関係ないのだ。