休憩所/サッカーのコラム


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第八話 中盤の王様の新たな挑戦 〜上野新主将の軌跡〜

 

 1999年開幕前。長い間、マリノス井原キャプテンの右腕に巻かれていたキャプテンマークは、新しい選手の腕に巻かれる事になりました。昨年は副主将としてチームを引っ張り、井原キャプテンがW杯等でいない時は、その腕にキャプテンマークを巻いてチームを鼓舞していました。
 その選手の名は、”上野良治”選手です。今シーズンからキャプテン良治の新しい闘いが始まります。彼の今までの闘いを綴ってみました。

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 ”上野良治”その名を初めて聞いたのは、彼が埼玉の武南高校で1年生時から10番を付けて活躍している時でした。3年連続して高校選手権の舞台に立ち、惜しくも優勝する事は出来ませんでしたが、準優勝を飾った事が有りました。中盤の王様として君臨する姿が思い出されます。

 武南高校卒業後、93年に開幕するJリーグチームから少なからずオファーは有りましたが、それを蹴って早稲田大学に進みました。しかし早稲田大学に進学した事は彼にとって結果的に少し回り道になってしまいました。ピッチ上で中盤の王様として攻撃的なパスを出し続けるスタイルを、その当時の監督は受け入る事が出来ず、守備意識が少ないという事で試合に出れない毎日が続きました。性格的に自分を曲げてまでプレイする事が出来ないため、試合に出れない日々が続きます。そんな2年という月日が流れました。そんな彼に目を付けたのが横浜マリノスでした。

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 94年開幕前の入団発表。高校選手権優勝の清水商業からマリノスに入団した川口能活選手の隣に、良治の姿が有りました。
 「 出来るだけ早くトップでの試合に出たい 」 彼の口から試合に対する意気込みが聞こえてきました。大学在学中のままJリーグに入団した最初の選手だった様な記憶が有ります。この年、横浜マリノスは、ミスターマリノスと呼ばれた木村和司を継ぐ、中盤の選手を求めていました。何人かの候補選手はいましたが、やがてやってくる世代交代を見越しての獲得だった事は明らかでした。その期待のままに、この年の新人選手の中では一番にトップデビューを果たしました。しかし思ったより早いJリーグの流れの中で持ち味を発揮できずにいました。
 そんな1年目のシーズンの途中、西野監督(現レイソル監督)が率いるアトランタを目指すオリンピック代表合宿に呼ばれる事になります。西野監督が自身の著書の中で「自分の現役時代のプレイにそっくりだ」と話したプレイは、オリンピック代表の中核になり得ましたが、それを怪我が阻みました。怪我により94年1年目のシーズンを棒に振ってしまいます。

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 翌95年は監督が清水監督からソラリ監督に代わり大幅な若返りが図られましたが、早いサッカーを標榜する監督によって良治のポジションはなくなっていきます。前年に加入したビスコンティが中盤を固めて、文丈、山田の二人が走り回るサッカーに良治の出番はなかなか来ません。

 ようやく試合に出るチャンスを掴んだのは、早野監督に代わってファーストステージを制した後でした。セカンドステージで何か新しい戦術を欲していた監督は、良治を司令塔として使う構想を出しました。しかし、それも数試合の事でした。セカンドステージの8試合目平塚戦、ここまで3勝4敗といまひとつ成果が出ない試合ぶりのマリノス。試合は4−4−2のフォーメーションで、上野を中盤の攻撃的MFとして試合に臨みますが、前半で2点を平塚に献上してしまいます。良治は中盤の真ん中でうろうろしているばかりで、守備意識が希薄で戦術的にまったく効いていませんでした。(当時のサッカーマガジンの選手評価でめったにお目にかかれない”3点”(10点満点)を付けられていました)早野監督は、良治を前半で交代させ、松田を入れて3バックに移行、3−5−2のフォーメーションにチェンジします。その効果は劇的に現れ、この試合3点を返してVゴール勝ちを収めました。結果的に上野を外しての逆転勝ち。マリノスはこの試合後、その当時のチーム記録となる7連勝を上げて優勝戦線に絡んで行きます。
 この試合を見た限りでは、良治の出番はもう来ないかな〜という感じでした。95年はチャンピオンシップを勝ち取りJリーグチャンピオンになりましたが、上野の貢献度は少なかったです。

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 翌96年、早野監督は再び上野に期待します。新しい戦術の中、上野に中盤のポジションを与えてシーズン前のサンワバンクカップのIFKイエーテボリ戦、ゼロックススーパーカップのグランパス戦などに先発として試合に出ますが、シーズン開幕からの5連敗が響いて上野の出番が減っていきます。この年は結局レギュラーでは数試合しか出れずに、この年のシーズンが終わる頃には財前恵一、松橋力蔵などといった中盤で期待されながらマリノスを去っていった選手と、同じ道を辿るかと思われました。

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 しかし97年、良治に新たな道を指し示す監督が現れました。
 早野監督からアスカルゴルタ監督に代わり。新しい監督はボランチの位置で数年活躍してきた元アルゼンチン代表のグスタポ・サパタが抜けた穴に良治を抜擢しました。周囲は驚きました。今まで守備意識が低いという評価を与えられていたからです。しかし開幕から数試合、危ない場面や試合も有りましたが、中盤のカットが良く野田とのコンビで今まで見られなかった働きを見せます。数年前はひ弱そうに見えた姿は、最終予選で代表選手が抜けたセカンドステージ途中から新しい面を発揮させます。自分のプレーで周りを引っ張り、危ないところではプロフェッショナルファウルも辞さないプレイは、周りの選手を鼓舞し続けます。このステージでは、チームの核となっている代表選手が抜けているにもかかわらずチーム新記録の11連勝を上げました。数年前は自分が抜けてから始まった連勝が、今度は自分の活躍で連勝を作り出す。この連勝がマリノスが”良治のチーム”になるきっかけだったように思います。良治もこの年で結果が出なければチームを去るような事をインタビューなどで話していました。休学中だった早稲田大学もこの年で退学届を出してマリノスでのプレイに専念する事にしました。

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 翌98年良治は、アスカルゴルタ監督から副主将の任を与えられます。井原キャプテンのいない時は、当然のように右腕にキャプテンマークが巻かれる事が多くなります。前年まで二人だったボランチは良治の成長で1ボランチとなり、魅力的で攻撃的な試合が出来るようになりました。前年加入したバルディビエソも持ち味を発揮して、前線でボールキープ出来るようになると、上野が上がってのシュートなども見られるようになってきました。
 圧巻だったのが、柏で行われたファーストステージのレイソル戦のミドルシュートです。文丈の先制点で1点勝ち越している前半終了間際、前線にするすると上がった良治に左サイドの路木からパスが出ます。上野は走り込みながらダイレクトで右足を一閃。ボールは急激なドライブがかかり、GK土肥の驚いた姿の横を抜けてゴール内でワンバウンドしてネットに突き刺さります。スタジアムにいた誰もが驚嘆の声を上げたゴールでした。珍しく右拳でガッツポーズを作る上野。この年マリノスのゴールの中でベスト3に数えられる素晴らしいドライブシュートでした。

 この試合後も、ボランチに定着した良治がチームの中盤の核として活躍します。中盤での相手選手からのカットが多く、ボールをめったに取られなくて、両サイドにボールを散らし、危険な地点を未然に防ぐ。マリノスは良治のプレイでチームが成り立つチームになっていました。同じピッチでプレイする選手からも絶大な信頼を得て、この年、新しく招集された日本代表候補キャンプにも参加しました。日本代表に選ぶには遅すぎたという声も各所で上がったほどでした。

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 新しい99年はヨシハルがキャプテンとしてマリノスを引っ張ります。副キャプテンに能活と三浦アツが選ばれて、合併後の新しいマリノスを作り上げていきます。言葉よりプレイで示す上野のキャプテンシーでマリノスがどこまで強くなれるのか?を注目して試合を見ていきたいです。

Jリーグに入ってから、強烈な”明”と”暗”繰り返した上野良治。99年シーズンは、強烈な”光”を放つヨシハルの姿を期待してスタジアムに足を運ぼうと思います。

〜 fin 〜