踊る麻酔科最前線

マスコミの欺瞞

マスコミ報道の欺瞞性、偽善性に関して考えてみました。
皆さんのご意見も掲示板あるいはメールにてお聞かせ下さい。

   


少年の頃は新聞に書いてあることに疑問の余地があるなんてことは夢にも思っていなかった。戦時中の報道管制なんて遠い過去のことだと思っていた。何か変だなと感じたのは、ロス疑惑事件のヒステリックな報道辺りだろうか。新聞も週刊誌もテレビも、みんな揃って三浦和義(当初はただの)参考人を弾劾し始めた。彼が犯人だという絶対の自信があったのだろうが、万一冤罪だとしたらどうやって詫びるつもりなんだろうかと、ひと事ながら心配になったもんである。
オウム真理教はとんでもない集団であるが、松本容疑者の逮捕と搬送を、ヘリコプターまで使ってすべての番組を中断してまで、何時間も放送し続けるテレビ局にはうんざりさせられた。
自分の息子に「悪魔」という名前を付けようとした父親は、確かに変人だと思うが、そういう変わり者を笑って許してやるのが寛容で成熟した社会というものではなかろうか。少なくとも法務省などの国家権力の出番だとは到底思えない。どちらも愚行だと思うが、国と個人、どちらの愚行を責めるべきか。考えるまでもないことだと思っていたが、父親に味方するマスコミは皆無に等しかった。
最後に極めつけなのが、最近の佐藤孝行バッシングである。私だってあんな人物に大臣になって貰いたいとは決して思わない。だがそれは私の個人的な意見であり、感情である。新聞、テレビ、週刊誌などのマスコミがすべて足並みそろえて彼を批判するのは、極めて奇異に感じてしまう。マスコミの論調はこうである。
1)佐藤孝行は収賄罪の有罪判決を受けた前科者である。しかも、反省の色が見られない。
2)前科者が大臣になった前例はない。
3)他の先進国でもそんな例は殆どないから、恥ずかしい。

1)この論法は明らかに前科者に対する差別である。マスコミはこういう差別を批判してきたのではないか?金持ちや議員は社会的強者であるから差別しても構わない、という意識があるのだとすれば、極めて危険な理論であり、薄っぺらな差別批判だと思うのだが。
2)前例がないことを理由に新しい試みを躊躇する役人を批判してきたのは、マスコミではなかったか?日本は民主主義の法治国家である。法によって「前科者は大臣になることを禁じている」のでなければ、前例がないということを佐藤叩きの第一理由にするのは、自分で自分の首を絞めることになりかねない。
3)他の先進国(特にアメリカ)の猿真似はもう沢山である。フランスがあれほど独自の路線を歩きながら、なお世界の尊敬を勝ち得ている(核兵器実験では相当みそをつけたが)のは何故か?考えたことがあるのだろうか。
恥ずべきなのは、他の先進国に前例がないからではなく、あんな人物が議員に当選してしまう選挙制度であり、彼に投票した選挙民である。当然、そのようなことが許される法律を改正しようという発言が出てくるべきではないか。収賄をした公務員や議員は、大臣になるどころか公民権(選挙権や被選挙権)を剥奪される国もあるのだから。そういう根本的な問題を解決することは、個人には極めて困難である。言っても無駄と諦めているのかも知れないが、マスコミ以外の誰に可能であるとも思えない。奮起して貰いたいものである。


「マスコミ倫理懇談会全国協議会」の記事を読んで

神戸小学生殺人事件に関する話題が多かったようである。「フォーカス」や「週間新潮」の報道姿勢に対し、「野党的態度はあっていい」「良い悪いはともかく決断には感心した」という理解的意見が出る一方、「権力介入の口実を与えるな」「犯人の少年を生んだ社会問題を論じる機会を失った」という非難も出たという。
大いに論じて貰いたい。しかし、やはり被害者の人権やプライバシーは殆ど無視されたように感じた。また、犯人の通う中学校や誕生日を(悪意ではないにせよ)報道した各社が、新潮社に「法を遵守せよ」と迫るのは「目くそ鼻くそを笑う」(失礼)ではないか。
「読者や視聴者は、流れてくるニュースに対するキチンとした反論権を持っていない。われわれは情報提供者として謙虚であるべきだ」という地方紙、「報道の自由は社会とのバランスで考えるべきで、マスコミも社会の一員なのだということを自覚しないといけない」という事務局長の意見が、机上の空論で終わらないことを願う。


ある新聞のコラムを読んで

「むごい話である.八戸市内の産婦人科医院に置き去りにされた新生児が,手当のかいなく死亡したという.へその緒と胎盤がついたままで,発見当時は生後数時間しかたっていなかったらしいと聞いて,背筋が寒くなった.
どのような事情があったのか,詳しくはわからない.が,きのう八戸署に逮捕された二十四歳の母親は「生活が苦しくて…」などと話しているというから,動機のお粗末さに驚く.しかも,第三子と聞くにおよんで再度タメ息が漏れた.
赤ちゃんは医院裏の職員通用口で発見,保護されたそうだが,当日の八戸市内は真冬日だった.死因は低体温によるショック死.セーターにバスタオルをまとっただけで厳寒の中に放置すればどうなるかぐらいは知らなかったはずはあるまい.
母親が赤ちゃんを胸に抱き,乳房をふくませている光景はいいものだ.一昨日に死亡した男の赤ちゃんは,その恩恵に浴すことはできなかった.母乳はまだしも,母親のそばでゆったりとすることも許されなかったのだから,何をかいわんやであろう.
母親を引き合いに出したが,この種の事件は父親の側に起因することもある.軽々に判断することは危険だが,子どもの父親ともなれば養育の責任が伴う.生命の尊さについてのモラルは男女等しく持つものであろう.
もし,この子さえいなければ,と考えることは自由だ.が,それを実行に移すとなると話は変わる.親の身勝手な生き方の犠牲になったいたいけな乳児のことを思うとふびんでならぬ.」

>この事件ですが、確かに悲しい事件です。身を守る術を知らない乳児の命が失われたことを思うと、とても母親を許す気にはなれません。しかし、この新聞報道にはいくつかの問題があります。
まず、新聞の使命(というと大袈裟ですが)を失念しています。新聞の使命の第一は何と言っても、事件の取材と客観的な報道です。それに対する論説は、あってしかるべきですが、少なくともあの記事からは、記者独自の取材をした形跡が読みとれません。そのような職業倫理の持ち主に他人を責める資格(あの記事は明らかに犯人を責めています)はありません。
次に、記者が犯人を責める根拠ですが、命を奪われた(少なくとも失った)乳児の「基本的人権」が蹂躙されたことが許されないという「暗黙の了解」を、前提にしています。容疑者(未決囚)の段階では、犯人として扱わないという約束は、実は「基本的人権」ではないかも知れません。これは社会の要請による「特権(というか、約束)」であるから、「基本的人権」が優先されるという潜在意識があるので、あのような記事になったのでしょうが、この考え方は今の所、広く認められた「自明の理」ではありません。それを説明せず(というか、意識もせず)あのような記事を書く記者の人権意識は確かに信頼に値しないと思います。すべての人に基本的人権があり、それは尊重されるべきであるというのは「自明の理」ではありますが、「自然に存在したもの」ではありません。先人達の努力により、勝ち取ってきたものであり、我々が子孫に残していくべきものであると考えています。
特に、父親に関する記述は、よく取材してから書いて欲しかったですね。また、母親が精神疾患である可能性もあります。その場合、責任能力のない人物の犯した犯罪は責められない、という「約束」がありますから..... やはり「独自の取材」をしてから、記事にして欲しかったと思います。


週刊ポスト(12/12号)を読んで

1)佐木隆三氏のコラム「オウム法廷」連続傍聴記「鉄砲玉イジメ」より抜粋。
「出版社の社長宅が右翼少年に襲われ、家人が2人殺傷された嶋中事件が起きたとき、カギをかけていたら、と警視総監が発言して、世間を唖然とさせた」
「麻原弁護団の鉄砲玉イジメは、やはり度を過ごしている」

>カギをかけ忘れて犯罪にあった事例に対し、「カギをかけていたら」と悔しがる警官の発言を「唖然として」聞く世間とは?また、「共謀共同正犯」で殺人罪に問われている被告人を、全力を尽くして弁護しようとする弁護士の行為を「鉄砲玉イジメ」とは.....
警官や弁護士などの専門職が、何のために存在すると考えているのだろうか?自らの価値観と職業倫理しか認めないジャーナリストの驕りではなかろうか?著者に言わせれば、「末期癌や痴呆症の医療や介護に熱心な医師や、無駄かも知れないと思いつつも蘇生に努力する救急救命医は、儲け主義の悪徳医」であろうし、「命を優先して、手足を切断する医者は、優しさのかけらもないヤブ医者」なのであろう.....

 

2)名医が答える症例セミナー「ヘルス&クリニック」より。
始めは「自然医学」のPRのページかと思ったが、どうやら真面目な記事らしい。慢性関節リウマチに蜂針療法を勧めるドクターの紹介なのだが.....「ミツバチの蜂針液は、自然が作った最高の薬といえます。中国では、蜂針液の研究が盛んですが、それによりますと、抗ヒスタミン剤、鎮痛剤的成分、天然抗生物質的成分、これらが3大特徴で.....(以下略)」

>私の知る限りでは、抗生物質の多くは「天然物」の筈ですが.....?天然成分配合というのは化粧品のCMでもお馴染みですが、この言葉は「副作用もなく安全だ」という錯覚を期待した「きわどい」商法です。
慢性関節リウマチの治療の原則は、関節破壊の進行を止めることです。鎮痛剤は補助療法(対症療法)に過ぎませんし、抗ヒスタミン剤や天然抗生物質的成分はなんの役にも立たないと思うのですが.....
「ミツバチの蜂針液は、自然が作った最高の薬といえます」.....きっと今頃、世界中の製薬メーカーが泡喰って研究を始めているでしょう。

明治の頃、「脚気は、米ぬかに含まれる未知の成分が不足して起こる」という学説を発表した農学者がおりました。当時の医学会から「素人のたわごと」と非難され、異端者扱いされましたが、今ではこの説(ビタミンB1欠乏)を疑うものは居りません。従って、どんな新説・奇説でも真摯に検討する必要はあると考えますが.....それを「医学の常識」であるかのように扱うのは、少々疑問です。


「サンデー毎日」(2/22号)「近藤誠医師勝利宣言?!厚生省がん検診打ち切りへ」を読んで。

 

「老人保健法は胃、子宮、乳、肺、大腸の5種類のがんについて、住民に検診を受けさせるよう市町村に義務づけている。検診費は国、都道府県、市町村が3分のlずつ負担し、今年度の厚生省負担金は給額174億円。それを来年度予算案の中ではゼロにし、あとどうするかは地方自治体に任せてしまった。厚生省老人保健課は、「財政難がまず第一の理由です。財政構造改革を進めで、さらに地方分権推進も重要なので」と説明する。カネがかかるのは分かるが、日本人の死因のトップであるがん撲滅のため「早期発見、早期治療」を旗印に行っできた検診を、そう簡単に切ることができるのだろうか。ところが、厚生省は、「(がん検診については)一般論としては有効だと言えます」と煮え切らない。有効ならなぜ切るのか理解に苦しむ。」

>そうですが、私は理解に苦しみません。厚生省の方針が正しいものであるかどうかは、私が論ずるべき問題ではありませんが、「厚生省が、がん検診負担金の打ち切りを決断した」のは、確かに、「がん検診に有効性がない」と判断したからという可能性もない訳ではありません。しかしながら、もう一つの可能性、すなわち「がん検診は有効だが、もう金が続かない」と判断したのかも知れません。
分かりやすく言えば、「今まで国がある程度は面倒見てきましたが、もう面倒見れません(これからは自分の健康や命は、ある程度は自分で守って下さい)」ということです。近藤誠氏(「今回のことは厚生省としての声明が出ようが出まいが、がん検診が無意味だということを認めたことになる」)のおっしゃるような、単純な問題ではないのです。

「結局、訳も分からないまま胃・子宮から大腸まで徐々に対象種類を増やしできたけれど、もともとがん検診の効力の根拠が弱かったということ」
>が証明された訳ではありません。これから、国を挙げての壮大な実験「がん検診に有効性がある(あった)かどうか」が、始まろうとしているのです。そして、その実験の結論が出るのは、そう遠くない将来でしょう.....ただ、その実験台になるのが「私たち自身」であることだけは間違いありません。

えっ?タバコを吸う奴(=すでに、実験台)の言うことは聞きたくない?
.....ばかやろー、そういうこと言う奴のせいで「禁煙」を決意しちまったぜ。

 

 

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