踊る麻酔科最前線

インフォームド・コンセント

インフォームド・コンセントに関して考えてみました。
比較的新しい概念であり、私自身ももっと勉強していく積もりです。
とりあえず、現在の私の考え(この先、変化する可能性もあります)を述べてみました。
皆さんのご意見も掲示板あるいはメールにてお聞かせ下さい。

   


インフォームド・コンセントとは?

日本医師会によれば、インフォームド・コンセントとは(医療に関する)「十分な説明と同意」と訳されている。日本弁護士連合会(日弁連)では「正しい説明を受け、理解した上での、自主的な選択・同意・拒否」と表現している。
どんな訳でも構わないが、要するに、「正確な情報に基づいて、自己(患者)の責任で検査や治療などの医療行為を選択する」という理念であろう。
すると当然、「自分でも医学を勉強する」態度が必要であろうし、「自分で判断した結果は、自己の責任(医者のせいではない)」という覚悟も必要な筈である。やれやれ、日本人には「荷が重い」かも知れない.....もちろん、欧米人には「荷が軽い」という積もりもないが.....
また、「自分で、ものが判断できない」幼児や重度精神病患者・痴呆者や、「犯罪的性向」の強い人物、「他人に騙されやすい」人物には当てはまらない概念である。こういう場合、「自分で、ものが判断できる」代理人が必要になる筈だが、これを「モラルある医師」に求めてきた結果が「赤髭信仰」(高いモラルに支えられたパターナリズム「父権主義」)であろう。

 


基本的人権としてのインフォームド・コンセント

「正確な情報に基づいて、自己(患者)の責任で検査や治療などの医療行為を選択する」権利は、幸福で人間的な生活を追求するための「基本的人権」の一つであると考えます。現代人にとって、「すべての人に基本的人権があり、それは尊重されるべきものである」というのは「自明の理」ではありますが、「自然に存在したもの」ではありません。先人達の努力により、勝ち取ってきたものであり、我々が子孫に残していくべきものであると考えています。その理解と覚悟のない人にとって、インフォームド・コンセントとは「絵に描いた餅」に過ぎないと思います。

結局、インフォームド・コンセントの概念を突き詰めていくと「すべての人が、理想的な医師に匹敵する知識とモラルを持つ」べきでしょう。そのためには、義務教育における「医学教育」や「倫理・道徳」の教育は必須であると思います。受験戦争に勝ち残るためだけの「教育」や、お上の言うことには何の疑問も反論も許さないという「行政」は、改善の余地ありと考えています。さらに、他人(医師および患者双方)への尊敬や同情、ボランティア精神というものは、人から強制されて身に付くものではありません。「人の意見を、何の批判もなく受け入れること」や「自分で、ものを考えない」態度こそが責められるべきでしょう。

 


医師のモラル(職業倫理)

医師のモラルの基本概念は、
1)目の前の患者の疾患の治療に全力を尽くすこと。
2)生命の保護>機能の保全>苦痛の除去>サービス業としてのやさしく親切な態度。という優先順位。
3)救命の可能性が低い患者と、救命の可能性が高い患者がいる場合は、後者の治療を優先する。
などです。

「酔っぱらい運転で子供をはねた運転手」と「はねられた子供」が居たとします。
「運転者が重症で、子供が軽傷の場合は、事故の第一当事者であっても重症者の治療を優先する」のが医師のモラルです。これは、多くの両親から責められる態度ですが、まだ理解しやすいでしょう。
問題は「運転手は重症であるが助かる可能性が高く、子供は即死に近く、助からない」と判断される場合です。心肺停止状態で運ばれた子供より、今にも呼吸が止まりそうな運転手の治療を優先することは「勇気が要る」「非人道的」行為ではありますが、医師のモラルはそれを求めるのです.....
このジレンマは、多くの方に理解して頂きたいと思います。

 


今後の課題

インフォームド・コンセントを「正確な情報に基づいて、自己(患者)の責任で検査や治療などの医療行為を選択する権利」と考えた場合、一番問題となるのは「正確な情報を誰が提供するか」ということです。「医者が信用できないから、正確な情報が欲しい」という人に、医者が情報を提供しても何の役にも立たないでしょう。また、現在の日本の医療体制(薄利多売でなければ、病院は倒産する)に置いて、医師に「十分な説明」を要求するのは「一方的な無理難題」でしかありません。
薄利多売方式の医療保険行政を改めるか、「十分な説明」は国やマスコミに要求するしかないのではありませんか?

ああ、何と苦しく遠い道のりであろう......
だから、インフォームド・コンセントのページは作りたくなかったのですが.....

 


恐るべき結論

インフォームド・コンセントについて深く考察していくと、一つの「恐るべき結論」が見えてきます。
それは「理性ある個人の健康や死生観に基づく決定は、尊重されなければならない」という理念です。
この理念のどこが恐ろしいのでしょうか?この理念は「癌の告知」や「自殺(安楽死や尊厳死を含む)」を容認するという理念に帰着するからです。別のページでも述べたように、私は個人的にはこの理念に大きな違和感は持っておりません。しかし、今の(個人主義の未熟な?)日本では「癌の告知」や「自殺(安楽死や尊厳死)の自由(幇助や教唆)」が広く認められているとは、とても思えません。
よく考えて下さい。医師にインフォームド・コンセントを要求するという行為は、最終的には「理性ある個人」が要求した「癌の告知」や「自殺」は容認する覚悟がなければ成立しない概念なのではありませんか.....?

安楽死(尊厳死)問題に関して興味のある方は、以下の書籍を参考にして下さい。

「死ぬ権利と生かす義務(安楽死をめぐる19の見解)」 ジョナサン・D・モレノ編/金城千佳子訳(三田出版会)
−−−−−まず、これを読んで下さい。ちょっと固いですが(^^;

「終末期医療はいま(豊かな社会の生と死)」 額田勲著(ちくま新書)
−−−−−絶対にお勧めです!!

いのちは誰のものか 岡田玲一郎著(家の光協会)
−−−−−いろいろ反論したいこともありますが.....

インフォームド・コンセントに関して興味のある方は、以下の書籍を参考にして下さい。

「生命倫理学を学ぶ人のために」 加藤尚武、加茂直樹編(世界思想社)

「医療神話の社会学」 佐藤純一、黒田浩一郎編(世界思想社)

 

 

<ホームへ戻る>