踊る麻酔科最前線

輸血拒否とエホバの証人

GigaHit

 

聖書の教えを忠実に守りたいという信仰心から、輸血を拒否している人々が存在する。
エホバの神のしもべという意味から、自らを「エホバの証人」と名乗る、
「ものみの塔」聖書冊子協会(以下、協会と表現します)の信者たちである。
過去の多くのカルト集団を見れば分かるように、ヒステリックな対応は逆効果である。
「エホバの証人」について冷静に分析してみよう。

 


 

「エホバの証人」の特徴 

  1. 「エホバの証人」は『新世界訳』聖書という独自の聖書を持っている。
  2. 「エホバの証人」は普通、比喩(たとえ)と考えられている悪魔や天罰を恐れている。
  3. 「エホバの証人」は普通、比喩と考えられている聖書の中の奇跡を信じている。
  4. 「エホバの証人」は、新約聖書の慈悲深い神よりも、旧約聖書の気まぐれで怒りっぽい神を好む。
  5. 「エホバの証人」はイエス・キリストの言葉と旧約聖書の神の言葉に矛盾がある場合、無条件で後者を信じる傾向がある。
  6. 「エホバの証人」は偏執的に輸血を嫌悪している。神が禁止した多くの行為の中で、特に血だけにこだわる傾向がある。「輸血されることは強姦されるに等しい」ことであると、教えられている。
  7. 「エホバの証人」は全血や濃厚赤血球の輸血は認めないが、他の多くの血漿成分輸血は認めている。ただし、血漿成分輸血を受けることは認めても、献血は許されない。保存された自己輸血は認めないが、人工心肺など管でつながっている場合は許される(自己の判断に任される).....と教えられている。
  8. 「エホバの証人」は協会に絶対的権威を置いている。司法機関ですらその権威を越えることはない。
  9. 「エホバの証人」は自分自身で考えることを「独立の精神」すなわち傲慢、独善であるとして禁止されている。
  10. 「エホバの証人」は自分たちは神に選ばれた選民であると思っている。
  11. 「エホバの証人」は自分たちの仲間を増やしたいと思っている。
  12. 「エホバの証人」は自分の信仰を試そう(覆そう)とするものは「悪魔の使い」だと信じている。
  13. 「エホバの証人」は千年王国と世界の終わり(ハルマゲドン)を信じている。
  14. 「エホバの証人」は現世の幸福より、天国での幸福を重要視する。それどころか現世で不幸なほど、天国に行きやすいと思っている。
  15. 「エホバの証人」は他の宗教の存在価値を認めない。エホバとその教えを信じない人は親でも子供でもない。家族にもそれを強制する。
  16. 「エホバの証人」はエホバとその教えに疑問を抱くことを禁じられている。教えに背いた者との交際は禁止される。本人が知らずに輸血を受けた場合でも(おそらく)許されることはない。
  17. 「エホバの証人」は高等教育を受けることを禁止されている。『新世界訳』聖書(および協会公認の冊子)以外の書物を読むことも制限される。当然ながら、学歴や教養が制限される。
  18. 「エホバの証人」は、協会が推薦しない宗教的行事や政治への参加を禁止されている。
  19. 「エホバの証人」末端信者には気が弱い善良な人、差別や障害や難病に苦しむ人(およびそれらの人に理解がある人)が多い。新しく「エホバの証人」になろうという人は、末端「信者の人柄に惹かれて」ということが多い。

 結局のところ、「エホバの証人」が信じているのは、自分の仲間や指導者に過ぎない。彼らが本当に恐れているのは、指導者からの弾劾や叱責であり、仲間からの村八分なのである。
 エホバの証人はハルマゲドンの恐怖におびえる、カルト宗教の被害者でもある。

 


 

「エホバの証人」の功罪(その功)

「エホバの証人」を完全な異端者とか、社会の害虫のように非難するのは簡単であるが、彼らはそれ(社会からの迫害)を「神の試練」とみなすであろう。迫害を受けた集団がますます結束して地下組織に変化することは珍しくないので、これは全くの逆効果である。まず彼らの有益性(存在価値)を考えてみよう。 

「エホバの証人」の功罪(その罪)

もちろん、私は「エホバの証人」ではないし、彼らの教義は認めない。
彼らの罪を考えてみよう。

  1. 自分たちのカルト的信仰を他人にも広めようとする。
     これが大きな社会問題になっていることはご存知の通りである。
  2. 自分の信仰を家族(特に子供)にも強制する。
     聖マリアンナ大学での輸血拒否小児死亡事件など、完全な親のエゴである。
  3. 輸血を頑なに拒否する動機が不純(必ずしも信仰によるものではない)である。
     彼らが輸血を拒否するのは、純粋な信仰心からとは思えないことがある。多くの場合、「輸血を受けることによって、仲間や指導者から弾劾や叱責を受ける」ことを恐れているに過ぎない。ものみの塔が発行する冊子にも「輸血にはこんな危険があります」という文章が多いけれど、信仰と科学をすり替えている。
  4. 医師の良心を苦しめる。
     医師の存在理由は「疾患の治療」である(疾患には身体だけでなく、こころも含まれる)。「死んでも良いから輸血しないでくれ」というのは医師の職業倫理を否定することになる。いくら「免責書」を貰っても、良心の疼きが癒されるわけではない。

    「エホバの証人」の問題に関心がある方、勧誘に迷惑している方は以下のホームページをご参照下さい。

 

 


医師としての対応

治療行為というのは医師と患者の間で結ばれた契約に基づくものです。契約である以上、ある程度は相手の希望を考慮する必要があることは言うまでもありません。エホバの証人だから、輸血を拒否しているからといって、即、診療を拒否することはできません。手術が必要な時、無輸血手術が可能であると判断されても、他に廻すというのは倫理的に問題ありと考えます。輸血が必要になる可能性が、3〜5割を越えるような場合、自分の病院で引き受けるかどうかは、院内の倫理委員会や院長の決裁が望まれます。その結果、自分の施設では引き受けられないということになったら、他の施設を紹介する(多くの場合、エホバの証人の患者さんは無輸血手術に好意的な病院の情報を持っています)ことをお勧めします。

緊急手術や未成年の場合。
交通事故や脳卒中で、意識がない状態で手術が必要になった場合に備え、エホバの証人は輸血に関わる免責証というものを携帯しています。あの書類は「輸血をしないことで発生する不利益に対する民事責任を追及しない」と言う誓約書に過ぎません。刑事責任(業務上過失傷害、過失致死)は司法機関が追求するものだからです。患者本人が未成年の場合に、親権者が提出する免責証も同様ですが、そのような免責証には法的拘束力はもちろん存在しません。あれはあくまでも、依頼書に過ぎないと考えて結構です。単に携帯しているだけの免責証や未成年の親権者が署名した免責証に基づき、輸血を施行しないことで患者に重大な障害が発生した場合、担当医の刑事責任が本当に免責されるかどうかは、今の所不確実です。

自分の病院で手術する場合。
エホバの証人からは「輸血に関する免責証」というものが提出されるはずです。「輸血をしないことで発生するいかなる不利益にも抗議しない」という内容が記載されておりますが、これですべての刑事責任が免責されると考えてはいけません。最近の判例ではこの主張は公序良俗に反する契約であり、無効であるとされました。
どんな場合も絶対に輸血しない、と約束することは慎むべきでしょう。「できるだけ努力するが、実際に輸血しなければ死んでしまうという事態になった場合、黙って放置することができるかどうかは自信がないし、約束は出来ない」といえば、エホバの証人の多くは納得してくれる筈です。私も数例は経験があります。
もちろん、安易な輸血は絶対にしてはなりません。輸血を受けた信者は、自身に責任がなくても仲間から村八分にされるのですから、一生恨まれます。余裕がある場合は、希釈式自己血輸血を考慮されることをお勧めします。エホバの証人患者に無断で輸血した場合、彼らはどこからそれを知るかというと、レセプトをチェックするのです。ということは逆に考えれば、自腹を切る覚悟であれば.....
いかん、いかん、許されることではありません。内部告発もありえますよね。

希釈式自己血輸血とは。
エホバの証人は人工心肺の使用を拒否しない。しかし貯血式自己血輸血には同意しない。体外へ出た血液でも管で繋がれて、循環していればよいのである。先人達は妥協点を見いだした。それが希釈式自己血輸血という方法である。
実際の方法は、患者本人から数百ccの血液を脱血し、それと同時に脱血分の血液をヘスパンダーや低分子デキストランで補う。という考え方である。これにより、まず自己血液の確保が可能になる。さらに、循環血液は希釈されるので、出血中に失われる自己血液が削減できる。という一石二鳥な方法である。注意しなければならないのは、脱血した血液は送血ラインによって一瞬も中断せずに循環しているという「建て前」が必要なことである。何ともばかばかしいことであるが.....。(人工心肺が一瞬の中断もなく、血液を循環させているなんてことはあり得ない。空気塞栓の予防のために人工心肺のポンプを停止している時間が少なからず存在する。)
問題点は以下の如くである。
1)手技が煩雑である。脱血ライン、送血ライン、輸液ラインの最低3本のラインを確保しなければならない。送血ラインと輸液ラインは理論上は一本でも構わないが、実際は薬の投薬などに用いられるので、別にしないとやっかいなことになる。特に送血ラインは、厳密には保険適応になるかどうかも疑わしい(実際は保険請求しているが)。個人の我侭から他人(医師や保険金納付者)に迷惑をかけていると非難するのは短絡的過ぎるであろうか。
2)安全な脱血量の予想はなかなか難しい。どうしても少な目になることは否めない。また、どの程度の出血までならこの方法で対処できるかも厳密な判断は困難である。ヘスパンダーや低分子デキストランも無制限に使える訳ではない。血小板機能障害や腎障害の危険は輸液量に比例して増加するし、アナフィラキシーショックの可能性もある。
3)悪性腫瘍による貧血や緊急事態による出血性ショックなどでは使用できない。エホバの証人は貧血は鉄剤やエリスロポエチンの投与で改善できると主張するが、実際にそれらの薬剤が効果を現すには少なくとも2〜4週間が必要である。副作用のため休薬しなければならないことも少なくない。その間、手術も延期することになる。癌を4週間放置しろという訳である.....。さらに悪性腫瘍から持続的に出血しているための貧血だとしたら、手術などにより止血しなければ貧血の改善はまず望めない。

出血および貧血の許容限度についての考察
急性出血における出血量の許容量には当然ながら、個人差が存在する。年齢や体格は言うに及ばず、貧血や動脈硬化の有無、肥満、喫煙習慣など多くの因子が関与する筈である。全くの健常成人で考えてみると、絶対安静時であれば循環血液量の30%までは輸液なしでも耐えられると言うことになっている(根拠は知りません>まさか...ナチや石井部隊の人体実験じゃないとは思いますが.....)。それ以上の出血には輸液や輸血が必要だとされる。どこまでは輸液で大丈夫とか、どこからは輸血が必要だとかははっきりしない。酸素投与でどこまでしのげるかなどもはっきりしない。
実は4気圧の100%酸素を利用した高圧酸素療法で、酸化Hbが0でも生存可能だと言うことは、一酸化炭素中毒の治療で分かっているらしいのだが。何時間も、何日もそんなことしていたら、酸素中毒で死んでしまうだろう。いやその前に、肺水腫、脳浮腫その他のため、Hbを0にすることは不可能であるはずだ。
経験的には、慢性貧血ではHbが4くらいでも生きてる人はいるらしい。急性貧血ではとてもそこまで耐えられないであろう。実例としてHb4で輸血しなかったエホバの証人の患者は2日後に肺出血で亡くなったと聞いている。肺水腫の進展と凝固因子の欠乏によるものだろうと想像する。

 


輸血の合併症

もちろん、輸血には多くの合併症が存在する。
1)あまりにも有名であるが、エイズや肝炎その他の感染である。
 輸血により感染する可能性のある疾患は、エイズ、肝炎(B型、C型)、成人T細胞白血病、マラリア、梅毒その他、数十種類はあると考えられている。さらに未知のウイルス感染などの可能性が存在する。
2)異型輸血、不規則抗体などに起因する副作用(溶血、腎不全、ショック、発熱、DICなど)
 死亡する可能性すら存在する。
3)免疫能を抑制する。
 腎移植などでは利点ともなり得るが、悪性腫瘍の手術では大きな欠点である。
4)GVHD(移植片対宿主病)が起こり得る。
 この疾患は比較的最近知られるようになったものだが、致命率ほぼ100%の恐るべき副作用である。

輸血の絶対適応 : それらの副作用を考慮しても、やはり絶対に輸血が必要な場合はある。
1)酸素運搬能
 代用血液は未だ開発途上にある。アレルギーや腎不全の可能性がクリアーできないからである。
2)血漿浸透圧
 赤血球は酸素運搬だけでなく、血漿浸透圧の保持に不可欠である。例え代用血液が臨床使用可能となっても、血漿浸透圧が維持できなければ、患者さんは肺水腫や脳浮腫で亡くなるだろう。
3)血液凝固能
 血小板や凝固因子が欠乏すると血液が凝固しなくなる。出血性ショックや術野の視野障害のため、大きな手術は不可能である。

 


最近の判決(朝日新聞1998年2月10日より)

同意得ぬ輸血に賠償命令──「エホバの証人」
「患者側に自己決定権」と東京高裁が逆転判決 

 「エホバの証人」の信者だった千葉県内の主婦(昨年8月に死亡)の遺族4人が、「信仰上の理由から輸血を拒否したのに、手術の際に無断で輸血を受けて精神的な苦痛を受けた」と主張して、東大医科学研究所付属病院側に総額1200万円の損害賠償を求めた訴訟の控訴審で、東京高裁は9日、原告の請求を部分的に認める逆転判決を言い渡した。稲葉威雄裁判長は「医師には、ほかに救命手段がない事態になれば輸血する、という治療方針の説明を怠った違法がある」と述べた。こうした判断に基づき、原告敗訴の一審判決が変更され、病院を運営する国と医師の3人が合わせて約55万円の支払いを命じられた。
 この裁判は、輸血拒否者への輸血をめぐり、患者が医師の責任を問う初めてのケースとして注目された。控訴審では、(1)原告と医師の側で「輸血以外に救命手段がない事態になっても輸血をしない」という合意はあったか(2)医師は非常事態には輸血をするという治療方針を持ちながら説明を怠ったのか――が主な争いになった。
 高裁判決は、エホバの証人の信者が輸血を承諾した治療ケースがあることや、この主婦と担当医のやりとりなどを踏まえ、「絶対に輸血はしない」という合意はなかったと判断した。 ただし、こうした合意があった場合の効力については、「公序良俗に反して無効」とした一審判決とは反対の判断を示した。その理由として▽輸血しないことを条件に手術を受けても他人の権利は害さない▽輸血しないことを条件にした手術で死亡した例があるが、刑事訴追を受けていない▽輸血なしで手術を行うことを認める医療機関が出てきている、などの点を挙げた。 判決はさらに、医師の説明義務違反の有無について検討。「今回のような手術を行うに際しては、患者の同意が必要であり、それは尊厳死を選択する自由も含めて、各個人が有する自己の人生のあり方は自らが決定するという自己決定権に由来する」との判断を示した。そのうえで、「医師団は場合によっては輸血をして手術を行う必要が出てきたと判断した時点で、輸血を行うことを説明すべきだった」と結論づけた。
 被告側は「輸血の必要性を説明すれば、手術を拒否されると思ってあえて説明しなかっただけで違法性はない」と主張していたが、稲葉裁判長は「被告の主張は患者の自己決定権を否定するものだ」と退けた。
 判決によると、この主婦は悪性の肝臓血管腫と診断された1992年6月、エホバの証人の信者の医師から、東大医科研を「無輸血手術をする病院」として紹介された。この主婦と家族は同年9月に手術を受けるに際して、信仰上の理由から輸血はできないと医師に伝えたが、医師は手術時に出血性のショック状態にあったことを理由に輸血を行った。当時余命1年とみられていた主婦は、手術後約5年たった昨年8月に死亡した。主婦は93年6月に提訴し、昨年3月に東京地裁が請求を退ける判決を言い渡し、控訴していた。

「説明と同意」、司法も後押し

《解説》「エホバの証人」の信者が医師らの責任を問いかけた裁判で、東京高裁は9日、人生のあり方は自分で決めるという患者の自己決定権を重視して、同意を得ずに輸血したのは違法との判断を示した。医療現場で築かれてきたインフォームド・コンセント(十分な説明に基づく同意)の考え方を、司法の場で正面から取り上げ、患者の側に立って後押しする意味を持つと言える。
 一審判決は「生命を救うためにした輸血は、(同意がなくても)社会的に正当な行為で違法性がない」という立場をとった。しかし、こうした考えは、「救命のためという口実さえあれば、医師の判断を優先させることで、患者の自己決定権を否定することになる」(高裁判決)ともいえる。専門家の間では「インフォームド・コンセントの考え方を大きく後退させる」との批判があった。
 医療現場では、「どんな場合でも輸血を受けない」というエホバの証人の信者への対応が、患者側に立って進められてきた経緯がある。日本医師会の生命倫理懇談会は1990年、輸血をしないことを条件にした手術を行うこともやむを得ないとする見解を示した。患者の意思を尊重して緊急時でも輸血しないとの見解を発表した医療機関も、少なからずあった。
 今回の高裁判決は、こうした医療現場の動きに沿うものと言える。患者の自己決定権から同意の必要性を導き出した判決は、さらに踏み込んで、「人はいずれは死すべきものであり、その死に至るまでの生き様は自ら決定できる」として、「尊厳死を選択できる自由をも持つ」との判断も示した。医療現場への影響が注目される。(豊 秀一)

判決文

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この件に関し、以下のメール(1998/2/12のメールをご本人の了解を得てアップ)を頂いたので、私の個人的見解を述べたいと思います。

「どうにかしてよ! エホバの証人」

 初めまして。私はある病院に勤務する産婦人科医です。2月10日の新聞の朝刊を見て驚きました。「エホバの証人」に同意を得ずに輸血した医師に対して賠償命令が出ているではないですか。実は私はある県に勤務していたときに「エホバの証人」の教団と論争したことがあるのです。以下にその骨子を思い出しながら感想を述べますので、よろしければ踊る麻酔科医さんの見解を聞かせていただきたいと思います。

1.我々医師は患者の命を助けるための教育を受けております。患者を見殺しにする教育は受けておりません。医学もまた「患者の命をいかにして助けるか」を研究する学問体系でして、それ自体完結しております。医師は「私は出血多量で死にたいから見殺しにしてくれろ。」などという患者に対処するすべを持ちません。私は別に医師をサービス業とは思っていません。技術屋あるいは職人に近い職種だと思っています。医師は患者の個々の要求のすべてを満足させなくてはならないとは思っていません。

2.訴訟には刑事訴訟と民事訴訟があります。出血多量の患者を見殺しにすれば業務上過失致死で刑事訴追を受ける可能性があるのではないですか。判決文では「過去に輸血しないことを条件にした手術で死亡した例があるが刑事訴追を受けていない」などと述べていますが、将来に関してはわからないではないですか。えてして医事訴訟などというものは患者本人が死んでから開始されるものでして、遺族一族郎党みなエホバの証人であるならいざしらず、遺族のうちのだれかが後日刑事告発しないという保証はあるのでしょうか。

3.分娩において母体が死亡する原因の一つに弛緩出血や子宮頚管裂傷 があります。5分10分のうちに500mlや1000mlの出血をみることもまれではありません。そんな場合インフォームドコンセントなんかとっていられません。輸血を開始した後で患者の命を助けたのちに事後承諾をとるのが当然と考えます。そもそも次の瞬間なにがおきるかわからないのが医療です。現場を知らない裁判官に結果論だけで論評されるのは不快です。

4.今回の判決は患者が尊厳死を選択する権利を認めたものです。しかし 末期癌において患者が尊厳死を選択できるチャンスはほとんどないと言えましょう。まず癌の告知を行なう医師や医療機関は約半分であること。 患者本人が尊厳死を希望しても、患者の家族が同意しないと無益な治療は続行されてしまうこと。それは医事訴訟は患者本人が死んでから遺族が 開始するものだからです。そして複数の医師が勤務している病院ではすべての医師の同意が必要です。患者が死ぬまで治療をあきらめない医師はどこの病院にもいるものです。その医師がサジを投げる頃には 患者は自分の自由意志など表明できるような状態ではありません。 京都の病院で患者を安楽死させたら医師が刑事訴追を受けた例もありますし、 東海大学の安楽死では医師が業務上過失致死が確定しました。個々のケースすべてについて裁判所がいちいち「この人は安楽死を許可します」「この人は治療を続行しなさい」などと判定してくれるんでしょうか。アメリカでは緊急時に24時間以内に裁判所が判断を示してくれるシステムも確立しつつあるようですが、本邦では聞いたことがありません。

5.医師及び医療機関は患者が「エホバの証人」であることを理由に診療を拒否できる権利を有することを裁判所が保証してくれるならいざしらず、 患者が助かれば民事訴訟、患者が死んだら刑事訴訟では医者はやっていられません。医事訴訟においては医師の結果責任は問われないと思っていましたがそうではないんですか。実際「エホバの証人」のいかなる手術をも拒否している病院もいくつかあります。○○大学の麻酔科が手術室の入室を拒んでいるのです。これはこれで医療法に違反しないんでしょうか。
 なんか怒りにまかせてとりとめのない質問になってしまいました。 これと同様の質問をある弁護士さんの E-Mailにも出してあります。比較検討して後学に役立てたいと思います。 お暇な時でいいですのでRes頂けたらと幸いです。

「私からの返信 」(一部改変)

1.に関してですは、まったく賛成です。あなたのおっしゃる通りです。 医師はサービス業という意見を聞く度に反論してきました。 大体、利潤追求が許されていないサービス業なんて聞いたことありません。 ただ、今度の判決主文には「医師の良心に従う以上、輸血を拒否する患者の診療を拒否できる」という主旨が明記されています。

> 「訴訟には刑事訴訟と民事訴訟があります。出血多量の患者を見殺しにすれば業務上過失致死で刑事訴追を受ける可能性があるのではないですか。」
「死んでもいいから輸血しないでくれ」という契約は公序良俗に反するものだから、無効であるという判例が出て、そう時間は経っていませんね。今回の判決主文には、先の判例は問題があるという指摘があります。

> 「判決文では「過去に輸血しないことを条件にした手術で死亡した例があるが刑事訴追を受けていない」などと述べていますが、将来に関してはわからないではないですか。えてして医事訴訟などというものは患者本人が死んでから開始されるものでして、遺族一族郎党みなエホバの証人であるならいざしらず、遺族のうちのだれかが後日刑事告発しないという保証はあるのでしょうか。」
刑事告発は司法(検察)機関が行うものですから、一度不起訴になってしまえば、遺族にできるのは、異議(不服)申し立てだけです。

> 「分娩において母体が死亡する原因の一つに弛緩出血や子宮頚管裂傷があります。5分10分のうちに500mlや1000mlの出血をみることもまれではありません。そんな場合インフォームドコンセントなんかとっていられません。輸血を開始した後で患者の命を助けたのちに事後承諾をとるのが当然と考えます。そもそも次の瞬間なにがおきるかわからないのが医療です。現場を知らない裁判官に結果論だけで論評されるのは不快です。」
今回の判決は、医療機関側にかなり同情的です。それは認めて上げましょう。緊急時は「エホバの証人」であると知らなければ無罪ですし、免責です。

> 「それは医事訴訟は患者本人が死んでから遺族が開始するものだからです。そして複数の医師が勤務している病院ではすべての医師の同意が必要です。患者が死ぬまで治療をあきらめない医師はどこの病院にもいるものです。」
これも医者ならみんな感じていることですね。(^^;

>「京都の病院で患者を安楽死させたら医師が刑事訴追を受けた例もありますし、東海大学の安楽死では医師が業務上過失致死が確定しました。」
あれは内部告発です。内部告発は単純な正義感よりも、個人的恨みから行われることが多いので.....お互い気を付けましょう(誤解のないように付け加えておきますが、私個人は尊厳死や安楽死に手を貸したことはありません)。さらに付け加えるなら、尊厳死や安楽死に、実験動物を殺すような非人道的方法をとるから、問題になるのです。また「尊厳死は夜に行われてはならない」と思います。疲労や怒りにまかせた「独善」になりやすいからです。

> 「すべてについて裁判所がいちいち「この人は安楽死を許可します」「この人は治療を続行しなさい」などと判定してくれるんでしょうか。アメリカでは緊急時に24時間以内に裁判所が判断を示してくれるシステムも確立しつつあるようですが、本邦では聞いたことがありません。」
おっしゃる通りです。自衛するしかありません。

> 「医師及び医療機関は患者が「エホバの証人」であることを理由に診療を拒否できる権利を有することを裁判所が保証してくれるならいざしらず、 患者が助かれば民事訴訟、患者が死んだら刑事訴訟では医者はやっていられません。医事訴訟においては医師の結果責任は問われないと思っていましたがそうではないんですか。実際「エホバの証人」のいかなる手術をも拒否している病院もいくつかあります。○○大学の麻酔科が手術室の入室を拒んでいるのです。これはこれで医療法に違反しないんでしょうか。」
今まではグレーゾーンでしたが、今回の判決でクリアーになりました。それはそれで良いことだと思います(最高裁で逆転する可能性はありますが)。
今回の判決によれば、我々には次の権利があります。
1)「エホバの証人」に対し、輸血を必要とする診療は拒否できる。
2)「エホバの証人」が無輸血で死んでも免責になる。

 「エホバの証人」は結局、非常に我侭な狂信者(カルト宗教の被害者)です。
1.自分の信仰のためなら他人(医師)がどんなに迷惑だろうとお構いなしです。
2.彼らの教義は自分たちの都合のよい医療(人工心肺や予防接種、赤血球を含まない血液製剤など)は受け入れる方向で修正されて来ています。
3.そのような恩恵は受けていながら、献血は成分献血すら禁止しています。
以前、私の所に布教に来た「エホバの証人」がいました。興味があったので、医者ということを知らせずに話を聞きました。まあ、医者のことなじり放題(医者が儲けたいから、面倒くさいから簡単に輸血するという論法)でした。他人を罵る宗教なんて、とても信用できません。
 以上のことを知って、なお「エホバの証人」を輸血で救いたいというのなら、方法はふたつです。
1)輸血しない約束は、絶対しないこと。「その時になってみないと分からない」(実際、私にも分かりません)と言えばよいのです。これで問題ありません。
2)輸血したことがばれなければ良いのです。ただし、これは違法行為ですから、方法は私の口からは言えませんし、お勧めもしません。「世の中には知らない方が幸せなこと」もあるのは、紛れもない事実です。
 エホバの証人が輸血を拒否している場合、本当に「死んでも良い」と考えているのか、周囲の圧力に負けて「建て前」でそう主張しているのかは、よほど親しくならなければ分からないことです。ただ、冷静に考えれば、エホバの証人は限りなくカルトに近い宗教です。信者は洗脳されている可能性(気の毒な被害者です)が極めて高いのです。「信教の自由」を尊重する余り、重大な誤りを犯してしまっては、「オウム真理教」事件から学ぶことはなかったということになってしまいます。
 エホバの証人にも「病院連絡委員会」というものがあって、輸血問題には大いに悩んでいます。その文章を紹介します。

「病院連絡委員会の結論」

 われわれ八人の病院連絡委員会のメンバーは、これらの問題点を注意深く考察した結果、次のような結論と考えに達しました。特 にわれわれは、このコメントをブルックリンの病院情報サービスで働く兄弟たちに宛てたいと思います。 セミナー第一、第二でのあなたがたの言葉を引用するなら、私たちは血に代わる治療法と協力的な医師に関する情報を提供するという領域において、「訓練された職業人」であるはずです。これは素晴らしいことであり、われわれは多くの祝福と、私たちの仕事が非常に良い結果を生み出すのを見てきました。同時に、われわれは、医学の進歩が、現在使用されている血液製剤に代わるものを見い出すことができることを望んでいます。そうなれば、単にわれわれエホバの証人にとってだけではなく、地球の全人類にとって、なんと素晴らしい祝福となることでしょう。確かに血液に代わるものが利用可能になれば、全ての医者はそれを喜び、それは、直ちに病院の治療指針に適用され、救急医療の処置にも使われるでしょう。 しかし、近い将来に何が起ころうとも、新しい合成の血液製剤、新しい病気、感染症、その他のどのようなものが発見されても、 現実の質問は、まだわれわれの心に残り続けます。協会の血の教義は本当に正しいのでしょうか。なぜ、多数の兄弟たちはこの問題に関する聖書の事実を考慮するとき、内面的な葛藤におちいるのでしょうか。協会は、血に関する全ての聖書の事実を、真にわれわれに提供したでしょうか。協会はいくつかの小さな血液成分を受け付けることによって、その固く立っているはずの立場の中 に、計り知れない矛盾を作り出したことを認識しているでしょうか。自己の血液を輸血することに反対する、はっきりとした確実な議論はあるのでしょうか。司法制度が介入して子供たちの生命と健康の保護に乗り出さない限り、協会の立場はわれわれの貴重な子供たちを殺しているのだということを、協会は認識しているのでしょうか。われわれエホバの証人としての最大の関心は血に代わる医療を探すことでしょうか、それとも命と血に関する聖書の事実を正面から調べることでしょうか。

 「エホバの証人」はカルトです

 「エホバの証人」は高等教育を受けることや、協会の推薦図書以外の書籍や文献を読むことを(信者に)禁止しているはずです。病院連絡委員会という幹部(=すでに洗脳が終わった人?)にだけ、そういう情報に触れることを許すということだけでも、十分にカルトの条件を満たしています。「エホバの証人」が、限りなくカルトに近い宗教であることは、以下の事実から明らかです。
1)世界の滅亡を、期限を明らかにして(現在は修正されていますが)、あるいは現実のものとして(本質的には、環境問題や核戦争などに対する漠然とした不安ではなく)信じている。米国では、このために自殺したと考えられる子供たちが存在します。
2)自分たちこそ「神の子」であり、他の一切は「悪魔の誘い」であるとする「排他的な」教義。
3)各個人の信仰心を深めることよりも、布教活動をより重視する協会幹部の方針。
4)「クリスマス会」や「誕生日」、「母の日」、「父の日」、「年賀状」、「学級委員の選挙」、「格闘技系を始めとするほとんどの体育授業とスポーツ」を子供にボイコットさせるような「児童虐待」を推薦・許容する教え。
5)選挙や政治活動への参加を禁止している事実。
6)法廷における「偽証」を容認・推奨しているという事実。
7)予防接種や臓器移植を禁止していた歴史。さらに、その方針を突然撤回しておきながら、何の謝罪もしていない事実。
8)「エホバの証人」が存在する家庭の多くが崩壊している事実。
9)「エホバの証人」には精神疾患の発症率および有病率が有意に高いという事実。
10)米国において「エホバの証人」に対し、親権剥奪処分を命じた判例が多数存在するという事実。
11)以上の態度に対する社会の正当な拒否反応に、被害妄想(に近いもの?)を抱いていること。
 カルト宗教に洗脳されている(可能性の高い)患者さんに対応するためには、医師自身も理論武装するしかありません。  

エホバの証人に対する一般的見解と私の意見

1)かなり頑強な信仰をもっており,説得により輸血承諾に成功することは稀である.したがって,輸血の必要な可能性のある手術や麻酔を担当する場合は要注意で,軽卒に施行してはならない.

○絶対安全な道はないが,賢明な対応法としては
1.手術と麻酔を拒否して他の病院に送る(そっち病院でこまるから,本当の解決ではないが).
2.自分の責任で施行しないで,なるべく上司の指示を仰ぐ.教授や部長や病院長から“命令”でやることにする.万一,裁判になっても“個人対応”でなく,“大学や病院”が対応して呉れる.
>基本的には賛成ですが、上司や病院長命令に頼りすぎるのも危険です。自分自身でよく勉強する態度を忘れてはなりません。理想的には(一番良いのは)「エホバの証人」の洗脳をとくことですが、医師にそこまで要求するのは無理難題というものでしょう。既存のキリスト教会には「エホバの証人」を改心させようと努力している方が大勢いらっしゃいます(リンク参照)。手術までに余裕があるなら、その方々に連絡をとり、協力を得るのが一番ではないでしょうか?

東大の方針は,1978年に“理解力がある成人の定時手術の場合は患者の希望をかなえる.その際に病院長の命令の形式をとる”という方針が科長会で承認を受けた.しかし,この方針はその後なしくずしになってしまい,現状ではあまりまもられていない.曖昧なままである.
3.私自身は,“病院長に許可を貰おうと知らせたら,病院長が手術中止を命じた”という経験がある.
4.緊急手術で患者が子供の場合(つまり親が信者の場合)は,医師の判断で輸血を強行してよい,と考える法律的な根拠がある.実例もある.
>完全に賛成です。全くもって、その通りです。
5.逆に,定時手術で患者が成人の場合は,医師の判断で勝手に輸血を強行すると裁判で負ける可能性がある,と考える法律的な根拠がある.
6.この問題に関する判例は日本にはない.裁判沙汰の可能性は常に残る.
>今回の一連の裁判が「日本初」ということになります。
7.弁護士木内道祥氏の意見は,合理的・実際的で一考に値する.内容はこうである.
「裁判になったとして,賠償金の大きさを死亡して賠償をとられる場合の金額と死亡せずに賠償をとられる場合の金額を比較すると,前者ならホフマン計算(逸失利益の計算)だから,1億円のオーダー、後者は“慰謝料”なので,多くても1千万円を越えない.したがって,“実際問題としては”,輸血をした方が安全である!」
まとめとしてはエリスロポエチンとかセルセーバーを使い、極力輸血はしない、最後に生命の危険がある時は病院長の許可をもらい、輸血を強行する、院内で日頃からコンセンサスを作っておくことも肝要。エイズも同様にコンセンサスを得ておくことが肝要。一番良いのは手術拒否であろう。早めに他院を紹介する。
>弁護士さんの意見は「安全」というより「安価」という意味でしょうが、基本的には賛成です。「セルセーバー」に関しては、エホバの証人が「自己血輸血」を、基本的には拒否していることを無視してはなりません。日本中の病院が「手術拒否」をしたらどうなるかを考えると「一番良い」方法とは思えません。
「エホバの証人」と「ものみの塔聖書冊子協会」の主張と、それに対する私の反論はここにアップしました。

 


医療従事者へのお願い

 輸血に関与するすべての医師へのお願いです。「エホバの証人」が手術にあたって提出する書類(輸血謝絶兼免責証書)の形式が、最近変わりました。良く注意していただきたいのは、担当医と麻酔医のサインの欄の上に「いかなる場合にも、患者の拒否する輸血や血液製剤を使用しないことに同意します」という項目が追加されていることです。どんなに無輸血治療に自信があっても、絶対にこの書類に署名しないで下さい。「エホバの証人」は医師がこの書類に署名しないからといって手術を拒否することはありません(私自身経験があります)。この書類に署名することは、「絶対的無輸血」を医師が支持している証拠として利用される可能性があります(今までの協会の態度を見る限り、その可能性は非常に大きいと言わざるを得ません)。それを許せばカルト集団である「エホバの証人」の輸血拒否に、断固として反対している多くの人々(聖職者、家族、医師など)の努力が水泡に帰するのです。すべての医師、すべての良識ある文明人が「あなたは間違っている」と言い続けること、それ以外に、彼らに「自らの過ち」に気付かせる方法はありません。

「生命倫理学を学ぶ人のために」 加藤尚武、加茂直樹編(世界思想社)という本があります。インフォームド・コンセントや医療(生命)に関する倫理について詳しく書かれている労作です。ただ、江崎一郎氏の書かれたp.68からの「輸血拒否の場合」には少々疑問があります。近く全文を掲載しますが、ここで江崎氏は「患者の自己決定の自由は、その内容が社会通念上、愚行と考えられる場合であっても、他者の権利を侵害しない限り最大限尊重されるべきである」と述べ、「エホバの証人」の絶対的輸血拒否の姿勢に理解的態度を表明しているように感じます。この理論は相手が「十分な知識が与えられた自由意志を持つ成人」であれば正論ではありますが、「エホバの証人」の最大の問題点は、「信者をマインド・コントロールしているカルト教団である」という事実です。「エホバの証人」が絶対的輸血拒否を表明する根拠は、「十分な知識が与えられた自由意志を持つ成人」には到底納得しがたい狂信的洗脳による「知識不足」です。江崎氏の主張は、行き過ぎたパターナリズムは患者にとって不幸な場合もあるという意味であり、十分納得できるものですが、「エホバの証人」に恣意的に利用されかねない危険をはらんでいます。特に問題なのは、未成年の事例についての考察がなされていない点と、「エホバの証人」のカルト教団としての本質が無視されていることです。

「エホバの証人」が、危険なカルト教団である根拠は、欧米の多くの研究によってすでに証明されています。特に有名なのが、1983年の「ビビアン報告」(フランス)、1984年の「コットレル報告」(EC)、1995年のフランス議会による「フランスのセクト」報告書などです。

以下の書籍を参考にして下さい。

  1. 「エホバの証人の悲劇/ものみの塔教団の素顔に迫る」 林俊宏(わらび書房)
  2. 「エホバの証人/カルト集団の実態」 ウイリアム・ウッド(三一書房)
  3. 「なぜ輸血を拒否するのか(1〜3)」 新世界訳研究会(Tel.0427-43-5674


    「輸血拒否の場合」江崎一郎.
    「生命倫理学を学ぶ人のために」加藤尚武、加茂直樹編(世界思想社p.68〜)

輸血拒否の場合−生命の神聖さから生命の質へ

 たとえば、輸血以外に治療方法がなく、もし輸血しなければ数時間のうちに確実に死亡すると考えられる患者がいたとしよう。このケースに登場する患者は、信仰上の理由によって輸血を拒否している。そしてこの患者は、輸血をしなければ確実に死を迎えるという医学的事実を理性的にそして冷静に了解している、自律的で理性的な判断能力を持った個人である。いわば「死を覚悟の上で、輸血を拒否する」という自己決定を下しているのである。医師は患者に対し十分な説明をしているのだが、それに対する同意が得られていない。患者は、信仰上の理由により冷静な判断に基づいて輸血を拒否し、これに対し医師は、輸血することが人命を救う唯一の道であり「患者の利益」になると考えている。医師のこの考えは、決して社会通念に反しているとは言えず、常識的判断であろう。しかしながら、その結果、輸血をするあるいはしないという対立が生じてしまう。

 医師は、生きていることが最も大切なことであるという「生命の神聖さ」あるいは生命尊重の立場から、延命措置としての輸血治療を行なう。患者は、この「生命の神聖さ」について理解を示しつつも、その患者個人の「生命の質」として、輸血拒否という「生き方の選択」をする。「生命の神聖さ」はこれまで広く一般に受け入れられてきたと言えるだろう。このような考え方に対し、患者は輸血拒否という「生命の質」を主張する。「生命の神聖さ」は従来、多くの医師によって普遍的に価値あるものと考えられてきたが、それに対してそれぞれの患者は、自分独目の価値としての「生命の質」を個別的に立てようとするのである。今や「生命の神聖さから生命の質ヘ」という流れが形成されつつある。すなわち、医師の「生命の神聖さ」という立場からなされるパターナリズム的治療行為は、ときとして患者個人の「生命の質」を蔑ろにし、患者による「生き方の選択」を否定することになるのである。

 ところで、このケースを法的に見たとき、どうなるのだろうか。一般に患者が輸血を希望し、あるいはその意思を確認できず緊急を要する場合、医師が唯一の救命方法である輸血治療を行なわないとなれば、日本国内では刑事上および民事上の法的責任を問われることになるだろう。しかしこのケースの場合、患者の「輸血拒否」という意思は明確であるのだから−結果的には患者の生命が失われたとしても−そのような法的責任を問われることはないであろう。逆に、患者の「輸血拒否」という意思が明確であるにもかかわらず輸血治療を行なうとすれば−結果的には患者の生命が救われたとしても−その違法性は免れず、少なくとも民事上の法的責任を問われる可能性は高い。

 さて、「患者の自己決定の自由」は、その内容が社会通念上、愚行であると考えられる場合であっても、他者の権利を侵害しない限り最大限尊重されるべきである、というのが近代市民社会を前提とした近代倫理学の一つの原則である。ジョン・スチュアート・ミルは『自由論』の中で次のように述べている(Mill, pp.223-224)。すなわち、「文明社会の成員に対し、その意思に反して、正当に力を行使することができる唯一の目的は、他人に対する侵害を防止するということにある。本人自身の幸福は、物質的なものであれ、精神的なものであれ、十分な正当化理由とはならない。そうすることのほうが本人のためにより良いとか、本人をより幸福にするとか、他の人々の意見によればそうすることが賢明であり、あるいは正当でさえあるからといって、彼になんらかの作為・不作為を強制することは正当ではありえない」。そして「およそ人間がその行為につき社会に服さねばならない唯一の部分は、他人に関係する部分だけである。自分自身にのみ関係する部分については、彼の独立は当然絶対的である。自分自身に対しては、自分の身体・精神に関しては、その個人が主権者である」。

 そうである以上、患者の自己決定内容を無視して輸血治療を行なうことは、「患者の自己決定の自由」を侵害することであり、許されるべきではない。個人の意思は他者を侵害しない限り尊重されるべきであり、その人自身の幸福は、正当化に対する十分な理由とはならないのである。すなわち、医師の考える「患者の利益」をもって、ある治療行為を正当化することはできないのである。「その個人自身の利害にのみ影響を及ぼす事柄に関する、成人や理性的人間の十分に自発的な選択や同意とは、他の誰も(そしてもちろん国家も)単にその人「自身の利益」となるという理由だけでは干渉する権利を持たないほど貴重なことである」(Feinberg, p.8)。だとすれば、他者を侵害するすべてのパターナリズムは否定されるべきなのか。正当化可能なパターナリズム、すなわち他者を侵害しないパターナリズムはありえないのか。そこで、次に、この正当化の問題を「パターナリズムの定義」と関係させながら考察してみたい。


>以下に私の見解を述べさせていただきます。
 「信仰上の理由によって輸血を拒否している」人々は、私の知る限り「エホバの証人」以外におりませんから、ここはエホバの証人を指していると考えます。
 すると最大の問題点は、「エホバの証人」が「自律的で理性的な判断能力を持った個人」であるかどうか、「自分独目の価値を持つこと」が許されているかどうか、「十分に自発的な選択や同意」が許されているかどうかです。エホバの証人は協会以外の権威を認めません。バプテスマ(洗礼)の儀式において、協会への絶対服従を誓わされるのです。協会の方針と異なる場合は、国家や裁判所の権威すら認めようとしないのです。当然、個人の自由意思など全く尊重されません。すべては協会の命ずるままに行動しなければならないのです。その証拠に「彼の独立は当然絶対的である」という考えは「独立の精神」=傲慢や独善として禁止されています。エホバの証人は自分たちが理性的で自由な考えの持ち主であることを主張するために、法廷で偽証するよう勧められることすらあるのです。米国では、「輸血を認めた」裁判所命令に背いて子供を病院から連れだした「エホバの証人」もいます。法治国家における最低限のルールすら、協会の権威の前では無力なのです。とても「自由意思を持った成人」であるとは認められません。
 「他者の権利を侵害しない限り」という部分も強調したいと思います。エホバの証人は明らかに彼らの子供の「生きる権利」を侵害する場合があります。
 エホバの証人は「ハルマゲドン」の恐怖と「永遠の神の国」への憧れという「飴と鞭(無知?)」によって、洗脳(マインド・コントロール)されている狂信者(であると同時に、気の毒な被害者)なのです。肝心なところを見逃して、エホバの証人を「自律的で理性的な判断能力を持った個人」であると即断するのは禁物です。

 

 

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