踊る麻酔科最前線

エホバの証人への反論 

「始めに」

 あらかじめ申しておきますが、私はクリスチャンではありません。極めて無神論者に近い人間です。しかし、信仰を持つ人々のことを軽んじるつもりもありません。
 協会はエホバの証人に、「協会の外の人間の言うことは悪魔の甘言であるから、聞いてはいけない」と教育するそうですから、私がお話しすることも「悪魔のささやき」かも知れません。しかし、一人前の宗教人になろうとするなら、「神の言葉」と「悪魔のささやき」をよく聞き比べて「悪魔のささやき」の間違いを正す努力をしていただきたいものです。
 反論の前に、まず以下のことについて知っておいていただきたいと思います。

「医学という科学の特殊性」
 「科学とは、自然界の現象を観察し、そこから導き出された仮説を単純に信じるのではなく、実験によって実際に証明する努力をすること」と考えます。医学の特殊性は、生体での実験に制限があることです。具体的には、
 倫理的に、本人の許可のない生体実験、人体実験は許されないこと。
 動物実験の結果がそのまま、人間に当てはまるとは限らないこと。
 生き物が対象であるため、初期条件の設定(統一)が困難であること。
 同一個体であっても、慣れや偽薬(プラシーボ)効果が起きること。などが挙げられます。

「絶対安全な医療行為や薬は、まず存在しない」
 どんな医療行為にも、ある程度の危険(必ずしも命の危険という意味ではありません)は存在します。水、酸素、ブドウ糖、塩など、人が生きていくために絶対必要なものであっても、場合によっては毒になります。従って、医学とは「予想される障害を、いかに少ない危険で乗り越えるか」ということを研究する学問です。
 「寿命による死」を除けば、どんなことも「絶対」とはなかなか言えません。癌を放置しておいても「絶対治らない」とは言えません。「治る確率は非常に低い」としか言えません。出血性ショックで死にかけている人に、「輸血すれば絶対助かる」と言えば嘘になります。「輸血しなければ99%死ぬでしょう。輸血すれば死ぬ確率は30%くらいになるでしょう。輸血そのものによる死亡率も0%ではありません。」というように確率でしか表現できません。医療の本質は、「予想される死の確率を、できるだけ低下させるための行為」であると言えるでしょう。

「血とは何か?」
 医学的には、血液は生体を維持する細胞と物質の集合に過ぎません。液体状の臓器と考えて良いのです。血液は赤血球、白血球、血小板の3種類の血球成分と血漿成分=水+それに溶けているもの(電解質、酸素や二酸化炭素、栄養素、血清蛋白、凝固因子その他)から成り立っており、その大部分は水に過ぎません。
 血球成分は、胎児や新生児では(赤色)骨髄、肝臓、脾臓などの造血器、健康な成人ではほとんど骨髄で作られます。赤血球は核を持たないので、細胞分裂して増殖することができません。寿命は約120日と言われています。その主な働きは酸素の運搬です。現在のところ、急性大量出血による赤血球の喪失(=酸素運搬能力の低下)に対処するには、輸血による補充療法(すなわち血液移植)以外の方法がありません。
 白血球は顆粒球とも呼ばれますが、主な働きは免疫を司り、外部から侵入した細菌やウイルスに抵抗することです。
 血小板の主な働きは、血漿中の凝固因子と連係して、血が空気に触れた場合、血を固めて出血を止めることです。
 血漿は、栄養素、凝固因子、免疫グロブリン、などを運搬する溶媒として機能するほか、電解質、アルブミンなどにより、生体内の恒常性を保つ複雑な機能を持っています。

「輸血とは?」
 医学的には輸血は、「血液という臓器」の臓器移植(transplantation)そのものです。従って、免疫反応など多くの副作用があり、安易に行うことはありません。特に、栄養補給(feeding)の目的で、輸血を行うことは保険適応がありません(=医学的根拠が薄弱です)。このような目的で輸血をする場合の根拠は「未知の栄養素やエネルギー、その他の必須物質」の存在を仮定した実験的医療ですから、本人(本人に判断能力のない場合は親権者や扶養責任者)の了解を得て、自費扱いで行うことになります。よって現代医学では、輸血は blood transfusion と呼ばれ、blood feeding と呼ばれることはありません。

「骨髄移植とは?」
 骨髄移植とは「骨髄血を輸血すること」です。骨髄血と普通の血液(末梢血)は、造血能を持った幹細胞の含まれる量(割合)に差があるだけで、見た目も成分も投与方法(経静脈的)も、全く同じものです。別の言い方をすれば、骨髄血には大量の末梢血が含まれるのです。「エホバの証人」にはショックなことでしょうが、骨髄移植と輸血は、治療対象となっている病気に違いがあるだけであり、補充する血液成分(割合は違いますが)も、副作用も、基本的には同じです。

「輸血の種類(成分)と適応」
全血;大量出血(1200ml以上)による重症出血性ショック
濃厚赤血球(洗浄赤血球を含む);中等度の出血性ショック、増血剤(鉄剤やエリスロポエチンなど)で改善しない(あるいは時間的に間に合わない)高度な貧血
白血球成分;造血機能障害による白血球減少が、生命に関わるような重篤な感染を起こしかねない場合。
血小板;血小板産生(あるいは機能)障害による出血傾向。大量出血に伴う出血傾向。
新鮮凍結血漿;肝不全や大量出血などによる複数の凝固因子欠乏に基づく出血傾向。
 これ以外の、血液製剤(アルブミン、血友病治療薬、ガンマグロブリンなど)は、エホバの証人も使用を受け入れておりますので割愛します。ただ、アルブミンなどの蛋白は、一度アミノ酸に分解された後、肝臓で再合成されるまで、自分の蛋白として(=栄養として)役に立つことはありません(血液の浸透圧を維持することはできます)。

「輸血の副作用」
1)移植片対宿主病(GVHD, Graft versus Host Disease)
 GVHDの概念を理解するには、高度に専門的な知識が必要なので、ここでは省略する。一度発症すると、確立された治療法もなく、死亡率は100%に近い疾患ではあるが、その発生率は約1/16万と言われている。また、輸血用血液に15〜50Gyの放射線照射を行うことでほとんど完全に予防できる。
2)血液型不適合輸血
 ABO型不適合輸血の死亡率は20%以下と言われている。不注意による人為的ミスで発生するが、ほとんどの場合、途中で発見され大事に至ることはない。だいぶ以前にある国会議員が血液型不適合輸血を受けて死亡したという報道があったように記憶しているが、原因は「自己申告した血液型の誤り」であり、そのようなことは通常の医療機関では考えられないことである。医師は「自己申告による血液型を信用するな」と教育を受けている。よほどの緊急事態であったのだろうが、そのような場合はRh(-)O型を輸血するのが正当である(日本では入手が困難ではあるが)。また、この不幸な人物の死因は出血多量である(血液型不適合輸血ではない)と反論されている。ABOおよびRh型以外の血液型不適合は、大きな問題になることはまれである。
 血液型不適合輸血の発生率は、推定が困難であるが、5万例の輸血に1例くらいであろうと想像されている。
3)ウイルス感染
 1996年に報告された米国における輸血によるウイルス感染の推定発生頻度は、以下の如くである。
      HBV     1/63000
      HCV     1/103000
      HIV     1/493000
      HTLV    1/493000
      Total   1/34000
(The risk of transfusion transmitted viral infevtions. Schreiber G.E. N.Engl.J.Med.334:1685-1690,1996)
4)輸血副作用とその原因(関口定美.臨床麻酔.21(1).p8.1997.より)
1.即時性輸血副作用(輸血直後から数時間以内に発生)
 1)免疫性副作用
  1)急性溶血反応          赤血球不適合輸血
  2)非溶血性発熱反応        白血球抗原に対する抗体
  3)アレルギー反応(蕁麻疹など)  血漿蛋自に対する抗体
  4)アナフィラキシー        IgAに対する抗体
  5)非心臓性肺浮腫         白血球に対する抗体
 2)非免疫性副作用
  1)ショックを伴う激しい発熱           細菌汚染
  2)うっ血性心不全・クエン酸中毒・カリウム中毒  過剰輸血
  3)溶血                     血液の過度な冷却,加熱
  4)空気栓塞・血栓・血腫・静脈炎など       輸血手技の未熟
2.遅発性輸血副作用(輸血後数日から数年後に発生)
 1)免疫性副作用
  1)GVHD(移植片対宿主病)  活性リンパ球の着床増殖
  2)同種免疫          各血液成分中の抗原
  3)輸血後紫斑病        抗血小板抗体の産生
  4)遅発性溶血反応       赤血球不適合輸血
  5)免疫抑制反応        各血液成分の頻回輸血
 2)非免疫性副作用
  1)輸血感染症  HBV,HCV,HTLVI,HIV,CMVなど
  2)敗血症    細菌汚染
  3)梅毒     トレポネーマ
  4)マラリア   マラリア原虫
  5)鉄過剰    頻回輸血

「臓器移植という観点から見た輸血の分類」
1)自己血輸血(自家輸血);自分自身の血液を輸血すること。
 貯留式自己血輸血;「エホバの証人」は、これを受け入れません。
 希釈式自己血輸血;「エホバの証人」は、これを受け入れます。
 回収式自己血輸血(セルセーバー);「エホバの証人」は、これを受け入れます。
2)同系輸血;一卵性双生児からの輸血。「エホバの証人」は、これを受け入れません。
 医学的(理論的、安全性の高さ)には、感染症を除けば自己血輸血と同じ事です。
3)同種輸血;いわゆる普通の輸血(人から人への)です。「エホバの証人」は、これを受け入れません。
4)異種輸血;霊長類など別の生物から人への輸血です。現在、行われません。

「輸血の安全性」
1)貯留式自己血輸血が最も安全ですが、「エホバの証人」は、これを受け入れません。人為的ミス(単純な取り違え、保存法や採血法のミスなど)と細菌汚染の危険(欧米ではエルシニア感染が報告されています。 Sire JM, et al : Septic shock due to Yersinia enteocolitica after autologous transfusion. Clinical Infectious Diseases, 17:955-956,1993.)はあります。増血剤(鉄剤やエリスロポエチン)の副作用も稀には起こります。
 鉄剤の副作用;胃腸障害が多い。
 エリスロポエチンの副作用;高血圧(脳症や脳出血など)、アレルギー反応など。
2)希釈式自己血輸血が次に安全です。「エホバの証人」は、これを受け入れます。血漿増量剤(低分子デキストランやヘマスターチ)の副作用(腎障害、アレルギーによるショックなど)も皆無ではありません。
3)回収式自己血輸血。「エホバの証人」は、これを受け入れます。血液の細菌汚染、癌細胞の転移という危険が加わります。
4)同種輸血(普通の輸血)。「エホバの証人」は、これを受け入れません。副作用には多くのもの(ウイルス感染、ABO不適合、溶血反応、GVHD、免疫抑制など)が加わります。ただ、死亡率は約16万例に1例です。

「無輸血手術に対する努力」
 自己血輸血;すでに述べました
 低血圧麻酔;脳梗塞、心筋梗塞などの危険も皆無ではなく、熟練した麻酔科医であってもストレスは感じます。
 低体温麻酔;心臓手術以外ではほとんど行われません。出血量の減少に役立つという証拠ははっきりしません。
 人工血液;凝固因子、白血球は含みませんので正しくは「人工赤血球」と呼ぶべきものです。研究段階です。

「輸血拒否とは?」
 宗教観や信念に基づき「死んでもいいから輸血しないで下さい」という態度を、絶対的輸血拒否。輸血合併症に対する心配や医療に対する不信感から「本当に死にそうな時以外は輸血しないで下さい」という態度を、相対的輸血拒否と言います。両者は似ているようで、「命の尊さに対する考え」が、全く異なります。「エホバの証人」以外には、「死んでもいいから輸血しないで下さい」という人は私の知る限り、日本にはおりません。

参考文献:

  1. 「輸血学会認定医カリキュラム」日本輸血学会雑誌第43巻4号(1997年8月)
  2. 「安全な輸血を目指して」日本医師会雑誌.119(2).1998.
  3. 「輸血・血漿製剤療法ガイド」Medical Practice.(臨時増刊号)1992.Vol.9
  4. 「今日の治療薬(98年度版)」.南江堂.1998.
  5. 「最近話題の輸血副作用と予防対策」臨床麻酔.21(2).1997.
  6. 「代用血漿輸液剤の現状と今後の展望」臨床麻酔.18(10).1994.
  7. 「非洗浄回収式自己血輸血法」臨床麻酔.21(12).1997.
  8. 「輸血後GVHDをめぐる諸問題」臨床外科.52(6).1997.
  9. 第3回血液シンポジウム.1995.
  10. 第4回血液シンポジウム.1996.
  11. 第5回血液シンポジウム.1997.
  12. Reports of 355 transfusion-associated death:1976 through 1985.Sazama K.:Transfusion.30.1990.p583〜
  13. 輸血情報9507-15(輸血によるマラリアの感染について)
  14. 輸血情報9607-27(赤血球製剤及び全血製剤の細菌汚染によるエンドトキシン・ショックについて)
  15. 輸血情報9701-33(赤十字血液センターに報告された輸血後GVHD−1993〜1996年)
  16. 輸血情報9705-37(副作用報告からみた輸血副作用の発生頻度)
  17. 輸血情報9706-38(赤十字血液センターに報告された非溶血性輸血副作用−1996年)
  18. 輸血情報9707-39(輸血によるHIV感染とウインドウ・ピリオド対策)
  19. 輸血情報9711-41(血液製剤の安全性向上のために−副作用・感染症情報の収集強化)
  20. 輸血情報9712-42(赤十字血液センターに報告された輸血後GVHD−1997年1〜10月)
  21. 医薬品副作用情報 No.130−2.エポエチンアルファ、エポエチンベータとショック(厚生省薬務局)

 

 以下の文章は「エホバの証人」(正式には「ものみの塔聖書冊子協会」以下、協会と略させていただきます)の主張する理論と、それに対する私の反論です。以後、協会の主張は黒字で、私の反論は青字で表現いたします。協会の主張には、無論、著作権がありますが、この文書は宗教団体が布教を目的に配布し、インターネット上でも公開している文書です。医学的、論理的に明らかな誤謬がありますので、医師としてそれを放置することはできません。協会側からの反論があれば、それを掲載することをお約束しますが、一方的な削除の要求には応じられませんので、ご了解下さい。
 また、「ものみの搭聖書冊子協会」および「エホバの証人」の主張する絶対的無輸血の方針に反対する方が、その目的のために使用する限りにおいて、私の文章(協会文書の引用を除く)の著作権を主張いたしません(前記の条件の範囲内であれば、ご自由に利用して下さい)。

ものみの塔聖書冊子協会のホームページのURLアドレスは、下に記しますので、コピー&ペーストしてお使い下さい。
http://www.watchtower.org/languages/japanese/index.html

 


「血―命にとって不可欠なもの」

 血はあなたの命をどのように救うことができるのでしょうか。血はあなたの命とかかわりがあるのですから,あなたはこの問題に関心を持つに違いありません。血は体全体に酸素を運搬し,二酸化炭素を取り除き,あなたが温度の変化に順応したり病気と闘ったりするのを助けます。

 命と血の結びつきは, 1628年にウィリアム・ハービーが循環系を図に表わすずっと以前から認められていました。幾つかの主要な宗教の基本的な倫理は,ひとりの生命授与者,つまり命と血に関するご自分の意見を明らかにしておられる方に焦点を当てています。ユダヤ人のクリスチャンであった一人の法律家はその方について,『神ご自身がすべての人に命と息とすべての物を与えておられます。わたしたちは神によって命を持ち,動き,存在しています』 と述べました。*

 そのような生命授与者を信じる人々は,その方の指示がわたしたちに永続的な益をもたらすことを確信しています。ヘブライ人の一預言者はその方を,「あなたに自分を益することを教える者,あなたにその歩むべき道を踏み行かせる者」と表現しました。

 イザヤ 48章17節にあるこの保証の言葉は,わたしたちすべてに益を与える倫理上の価値観ゆえに敬意を受けている書物,つまり聖書の一部となっています。この書物は人間が血を用いることについて何と述べているでしょうか。そこには,血によって命が救われると書かれていますか。実を言えば聖書は,血が生物学的に複雑な液体以上のものであることを明確に示しています。聖書は血について400回以上言及していますが,その中には,命を救うことと関連づけられている箇所もあります。

 そうした箇所の最初のほうで創造者は,「生きていて,動くものはすべて,あなた方の食物となる。……しかし,命の血がまだその中にある肉は食べてはならない」と宣言し,「あなたの命の血に対して,わたしは確かに言い開きを求める」と付け加えてから,殺人を非とされました。(創世記 9:3-6,新国際訳)創造者はノアにそのように語られました。ノアはユダヤ人からも,イスラム教徒からも,クリスチャンからも大いに尊ばれている人類共通の先祖です。そのようにして,創造者から見て血は命を表わすということが全人類に知らされました。これは食事に関する規定以上のものでした。ここに道徳的な原則が関係していたことは明らかです。人間の血は重要な意味を持つものであり,誤用すべきではありませんでした。後に創造者が付け加えられた詳細な点から,創造者が命の血と道徳上の問題を結びつけておられることを容易に理解できます。

 神は古代イスラエルに律法を与えた時,再び血に言及されました。その法典に含まれる知恵と倫理に敬意を示す人は少なくありませんが,ほとんどの人は血に関するその重大な律法に気づいていません。例えば,このような律法がありました。「イスラエルの家の者あるいは彼らの中に住んでいるよその人のだれであれ,血に幾らかでもあずかるなら,血にあずかっているその人に対してわたしは自分の顔を向け,その人を一族の中から断つであろう。肉の命は血のうちにあるからである」。(レビ記 17:10,11,タナック訳)次に神は,狩りをする者が動物の死体をどのように扱うべきかを説明し,「その血は注ぎ出し,それを地で覆う。……あなたはいかなる肉の血にもあずかるべきではない。すべての肉の命はその血であるからである。それにあずかる者はだれであれ,断たれる」と言われました。―レビ記 17:13,14,タナック訳。

「この結果,[使徒 15章で]明確かつ秩序立った仕方で定められた指針は,絶対に必要なものとみなされており,使徒たちの思いの中で,それが一時的な取り決めや暫定的な 規準ではなかったことの極めて強力な証拠となっている」―ストラスブール大学教授,エイドワール・ロイス。

 命を支えるために血を取り入れることが創造者によって禁じられていることは,律法の中で繰り返し語られました。「あなたは血を食べてはならない。それを水のように地面に注ぎ出さなければならない。それを食べてはならない。それは,あなたとあなたの後の子供たちに関して物事が順調に運ぶためである。あなたは正しいことを行なうことになるからである」―申命記 12:23-25,新国際訳;15:23。レビ記 7:26,27。エゼキエル 33:25。

 現在の医学者は「血を食べること」を勧めているでしょうか?現代医学は「血を栄養として摂取すること」に特別の利点も欠点も認めておりません。勿論、血液には多くの栄養素が含まれております。従って、無菌的に冷蔵保存しなければ、細菌に汚染しやすく、腐りやすいのも事実です。私が毎日スッポンの生き血を飲まないのは、他に食べるものがいっぱいあるのに、そんなまずいものを飲む気がしないからですし、そんな贅沢をする金がないからです。スッポンの生き血を飲むと精力が付く(=血には何か神秘的な力がある)と考えている医師は、私の知る限り皆無です。「砂漠で死にかけた旅人が、ラクダの血を飲んで助かることがある」のは事実ですし、医師として、その行為を非難することは馬鹿げていると考えます。血液は栄養に富む物質ですから、非常時にそれを飲んで命を長らえることは、恥ずべきことでも何でもありません。
 
現代医学では、輸血 blood transfusionは、出血や病気によって失われた血液成分(あるいは全血液)を補充するという目的で行われます。これは「血液という重要な働きを持った臓器」を移植する行為です。「血を食べる」eat, 「血を飲む」drink,「血によって養う」feedという行為は、医学的意味での輸血とは全く別の行為です。
 私は医師として、人間として、「輸血および献血は、神が禁止した行為である」という理論には、絶対に賛成いたしません。献血は、他人を救うために自らの痛みを省みずに行う尊い献身です。しかもその献身には、命の危険は全くないと言って過言ではありません。少なくとも
私の知る限り、日本国内で過去何年も、献血が原因で死亡した人は1人もおりません。

 

 今日のある人たちの論じ方とは全く異なりますが,血に関する神の律法は,緊急事態が生じたというだけの理由で無視されるべきものではありません。戦時の危機のさなか,イスラエル人の兵士の中には,動物を殺して「血のままで食べ(た)」者たちがいました。緊急事態であったことを考えると,彼らが血で自分たちの命を支えても差し支えなかったのでしょうか。そうではありません。彼らの指揮官は,兵士たちの取った行動がやはり大きな間違いであることを指摘しました。(サムエル第一14:31-35)したがって,命は貴重なものですが,わたしたちの生命授与者は,緊急事態ならご自分の規準を無視してもかまわない,とは決して言われませんでした。

 この兵士達は戦争に勝った祝いに、浮かれて羽目を外してしまったことを責められたのではありませんか?この兵士たちは飢えに苦しんでいたわけではありません。緊急事態ではなかったのです。
 負け戦で追われている兵士や、砂漠の真ん中、無人島の漂着者が「緊急避難」として、動物の血を飲んだのとはわけが違います。だからこそ、そういう行為が責められたのでしょう。しかも彼らの罪は「死をもって償う」あるいは「破門される」ほどの罪ではありませんでした。「悔い改めれば、全てを許す」のが、イエスの教えなのではありませんか?
 今日、極少数の人を除く全ての人たち(ある人たちではありません)は「わたしたちの生命授与者(誰のことですか?)は、命にかかわるほどの緊急事態ならご自分の規準を無視してもかまわない、と言っている」と考えます。これは「
正当防衛」や「緊急避難」という概念で、理性ある人々から広く支持された考え方です。
 しかしまあ、神との契約とか、永遠の命とか、難しいこと考えるから、やっかいになるんでして、童心に還ってみましょう。転んで怪我して血が出たとき「舐めときゃ治る」と言いませんでしたか?これが「死をもって償う」ほどの大罪なのでしょうか?全ての動物は、子供が怪我して血が出ているとき、親が舐めて治します。人間にだけは許されない行為なのですか?この時、動物の親は、血清肝炎にかかったらどうしようとか、エイズになるのが恐いなんて夢にも思わないでしょう。それは無知からくる愚かなことなのでしょうか?

 

「血と真のクリスチャン」
 血で人間の命を救うという問題に関して,キリスト教はどんな立場を取っているでしょうか。イエスは忠誠の人であり,それゆえに非常に敬われています。イエスは,創造者の言葉を通して,血を取り入れることは間違っており,その律法には拘束力があるということを知っておられました。したがって,血に関する律法を擁護させまいとする圧力のもとに置かれたとしても,イエスがその律法を擁護したであろうと考えてよい正当な理由があるのです。イエスは「悪を行なわず,[また]その唇に不実なことは見いだされなかった」のです。(ペテロ第一 2:22,ノックス訳)
 そのようにイエスはご自分の追随者たちに模範を示されましたが,命と血に対する敬意という面でもイエスは模範でした。(あなたの命に影響を及ぼすこの肝要な問題にイエスご自身の血がどのようにかかわっているかは,後で考慮します。)

 血に関するエホバの最初の律法はノアとその家族に与えられ、これらは時に「永遠の契約」と呼ばれるそうです。詳しい解説は神学者に譲りますが、単純に、「血を取り入れること」や「人の血を流すこと」が神の教えに反するのなら、輸血以外にも多くの医療行為(臓器移植や全ての外科的処置)を禁止しなければなりません。「医学で使用する血液は、生き続けている人間が、他の人の生命を救うために自発的な献血をすることによって行われ、生命を奪う目的ではありません。生命を象徴しているもの(=血)を尊敬する余り、それが象徴しているはずの命を救うこと(=輸血)にまで使用させないというのは、偶像崇拝の例になると言えるでしょう。」と言う意見に賛成です。イエス自身は聖書の中で、次のように述べています。

 「外から入って行ってその人を汚すことのできるものは何もありません。人から出て来るものが人を汚すのです」。さて,[イエス]が群衆から離れてある家に入られると,弟子たちがこの例えについて彼に質問しはじめた。それで[イエス]はこう言われた。「あなた方も彼らのように悟る力がないのですか。外から入って行くものは何一つとしてその人を汚すことができないことに気づいていないのですか。それは,[その人の]心の中にではなく,腸の中に入って行き,それから下水に出て行くからです」。こうして[イエス]はすべての食物を清いとされたのである。さらにこう言われた。「人から出て来るものが人を汚すのです。内側から,つまり人の心から,害になる推論が出て来るのです。すなわち,淫行・盗み・殺人・姦淫・貪り・邪悪な行為・欺まん・みだらな行ない・ねたむ目・冒とく・ごう慢・理不尽さです。これら邪悪な事柄はみな中から出て来て,人を汚します」。(マルコ7:15-23)

 すべての食物を清いとされたイエスが、血液だけはあなたを汚すと言ったでしょうか。「血を食べることだけは例外で、どんなことがあっても血を食べない律法だけは永久に守り続けなければいけない」と言ったでしょうか。イエスは盲従的に律法を守ることを嫌い、何よりも「信仰」が重要であることを示されたはずです。次の安息日に関するイエスの言葉も同じことを言っております。クリスチャンの医療従事者が、日曜日には仕事をしてはいけないのでしたら、一体どれほどの命が失われるでしょう。

 その場所を去ってから,[イエス]は人々の会堂に入られた。すると,見よ,片手のなえた人がいた。それで彼らは,「安息日に[病気を]治すことは許されるだろうか」と[イエス]に尋ねた。彼を訴える理由を得ようとしてであった。[イエス]は彼らに言われた,「あなた方のうち,一匹の羊を持っていて,それが安息日に穴に落ち込んだ場合,それをつかんで引き出さない人がいるでしょうか。どう考えても,人は羊よりずっと価値のあるものではありませんか。それで,安息日にりっぱなことをするのは許されているのです」。(マタイ12:9-12)

 

 マルティン・ルターは使徒たちによるその布告の意味 を次のように指摘しました。「今もし我々がこの会議に従う教会を持ちたいのであれば,……我々は,王子も,領主も,自治都市の市民も,農民も,今後は血で調理したガチョウ,雄ジカや雌ジカ,豚などを食べてはならないと教えかつ主張しなければならない。……また,自治都市の市民と農民は,赤いソーセージと血入りのソーセージを特に避けなければならない」。

あなたはマルティン・ルターの信者なのですか?キリスト教の信者なのですか?「外から入って行ってその人を汚すことのできるものは何もありません。」と言ったイエス(キリスト)の言葉より、他の人の言葉に重きを置くのなら、堂々と「我々の宗教はキリスト教ではない」と主張するべきです。ちなみに、マルティン・ルターだって「輸血はいけない」とは言っていません。

 

 イエスの死後,幾年かが経過し,クリスチャンになった者がイスラエルの律法すべてを守る必要があるかどうかについて問題が起きた時どんな事柄が生じたかに注目してください。その問題は,使徒たちを含むクリスチャンの統治体の会議で討議されました。イエスの異父兄弟であったヤコブは,ノアとイスラエル国民に対して語られた血に関する命令を含む書き物に言及しました。その命令はクリスチャンに対しても拘束力があるのでしょうか。―使徒 15:1-21。

 その会議は下した決定をすべての会衆に送り出しました。クリスチャンはモーセに与えられた律法を守る必要はなく,「偶像に犠牲としてささげられた物と血と絞め殺されたもの[血を抜いていない肉]と淫行を避けていること」が「必要」なのです。(使徒 15:22-29)使徒たちは単なる儀式的もしくは食事に関する法令を提出していたのではありません。この布告は,倫理に関する基本的な規範を定めたもので,初期クリスチャンはこれに従いました。それから約10年後,彼らは,「偶像に犠牲としてささげられた物,ならびに血……また淫行から身を守っている」べきであることを認めました。―使徒 21:25。

 確かに、クリスチャンはモーセに与えられた律法を守る必要はないようです。
それはともかく「偶像に犠牲としてささげられた」のは、何でしょうか?どこに句読点を打つべきでしょうか?
「偶像に犠牲としてささげられた物と血と絞め殺されたものと、淫行を避けていること」
「偶像に犠牲としてささげられた物と、血と、絞め殺されたものと、淫行を避けていること」のどちらが正しい考え方でしょうか?なぜ、血は避けなければならないのでしょう?偶像に犠牲としてささげられたからではないでしょうか?
 血には、何か特別で神秘的な力があるので、敵の血を飲むことで強くなろうとする未開な人々がいました。血は神聖なものだから避けなければならない、という考えとどこが違うのでしょう。

 

 あなたは,非常に大勢の人々が教会に通っていることをご存じでしょう。彼らの大半は,クリスチャンの倫理の中に,偶像に崇拝をささげないこと,ゆゆしい不道徳行為に携わらないことなどが含まれていることにきっと同意するでしょう。しかし注目に値するのは,使徒たちが,血を避けることをそれらの悪を避けることと同じ道徳的な高いレベルに置いていることです。その布告の結びには,「これらのものから注意深く身を守っていれば,あなた方は栄えるでしょう。健やかにお過ごしください」と述べられています。―使徒 15:29。

 使徒たちによる布告は長い間,拘束力のあるものと理解されていました。エウセビオスは2世紀終わりごろの少女について述べていますが,その少女は拷問に遭って死ぬ前,クリスチャンは「理性を持たない動物の血さえ食べることを許されていない」と主張しました。この少女は死ぬ権利を行使していたのではありません。生きることを望んでいましたが,自分の信念を曲げようとはしなかったのです。あなたは,個人的な利得よりも信念を優先させる人々を尊敬するのではないでしょうか。

 私の疑問は、その信念が、正しい教え(情報)に基づいているかどうか、また、個人の良心によるもの(他人の強制ではない)かどうか、です。信仰に生きる人々に対し、拷問や江戸時代の踏み絵のようなことをする現代人がいるでしょうか?今の私たちが生きているのは、江戸時代の日本や中世ヨーロッパではありません。自由と人権を尊重する「現代の日本」なのです。殉教という行為は、本当に美しく尊いことなのでしょうか?江戸時代のクリスチャンは、絵を踏むことを「何故」恐れたのでしょう?
「血が何か(命)の象徴であるから、死んでも避けねばならない」というのは「偶像崇拝」ではありませんか?そのような行い(殉教)を嫌ったからこそ、イエスは「すべての食物は清い」と、おっしゃったのであり、「偶像崇拝」を禁止したのではありませんか?

 

 科学者のジョセフ・プリーストリーは次のような結論を下しました。「ノアに与えられた,血を食べることに関する禁令は,ノアの子孫全体に課せられた責務のように思える。……原始キリスト教徒がその禁令の本質と適用範囲を正しく理解していなかったとは到底考えられないが,その原始キリスト教徒の行ないに照らして使徒たちのこの禁令を解釈するなら,それが絶対的で恒久的なものとなるよう意図されたものであると結論せざるを得ない。その後幾世紀にもわたり,クリスチャンはすべからく血を食べなかったのである」。

 現在でも血(特に人の生き血)を食べる人は、殆どおりません。そのような行為は文明人には、ふさわしくないからです。輸血は「血を食べること」ではありません。医学的には、健康な腎臓や心臓を失った人に対する腎移植や心臓移植が臓器移植の1種類であるのと同じく、「血液という臓器」を失った人に対する、献血者の尊い献身による「臓器移植」の1種類です。
 それにしても不思議なのは、このような宗教論に「科学者」の言葉を引用することです。なぜ協会は「自分の言葉」や「宗教家の言葉」あるいは「聖書」を使わず、宗教の門外漢である「科学者の言葉」を引用するのでしょうか。

 


「薬物として血を用いるのはどうか」

 血に関する聖書の禁令は,ノアやモーセや使徒たちの時代には決して知られていなかった輸血のような医学的な使用法にも適用されるのでしょうか。
 当時,血を用いる現在的な療法は存在していませんでした。しかし,血を薬物として用いることは現代に始まったのではありません。エジプトや他の場所ではおよそ2,000年にわたり,人間の「血が,らい病の最高の治療薬」とみなされていました。一人の医師は,アッシリアという国が工業技術の先端を行っていた時代に,王エサル・ハドンの息子に施された療法を,次のように明らかにしています。「[王子]はずっとよくなっている。わが主なる王には幸せが訪れよう。22日から(彼に)血を飲ませているが,王子は(それを)三日間飲むことになる。内服薬としてさらに三日,(彼に血を)与えるつもりである」。エサル・ハドンはイスラエル人と交渉を持ったことがありましたが,イスラエル人には神の律法があったため,彼らが薬物として血を飲むことは決してなかったでしょう。
 ローマ時代に血は薬物として用いられましたか。博物学者のプリニウス(使徒たちと同時代の人)や,2世紀の医師アレタエウスは,人間の血がてんかんの治療法だったと伝えています。後にテルトゥリアヌスはこう書きました。「貪欲な渇望を抱いた者たちについて考えてみよう。彼らは闘技場の出し物に際し,邪悪な犯罪者の血を奪い取り,……てんかんを治療するためにそれを持ち帰るのである」。
 テルトゥリアヌスは彼らをクリスチャンと対照させ,クリスチャンは「[自分たちの]食事のさい動物の血を食べることさえしない。……クリスチャンを試す時,あなた方は血のいっぱい入ったソーセージを差し出す。もとよりあなた方は,[それが]彼らに許されてはいないことを十分知っているのである」と述べています。ですから,初期クリスチャンは死の危険を冒すとしても,血を取り入れようとしませんでした。
 「肉と血」と題する本は次のことを伝えています。「より日常的な形態としての血は,医学と魔術の一要素として人気を失うことがなかった。例えば,1483年に,フランスのルイ11世が危篤状態になった。『日を追うごとに病状は悪化し,どんな薬も効果がなかった。もっとも,薬は奇妙なものだった。というのも,彼は人間の血によって回復することを熱烈に願ったからである。彼は特定の子供たちから血を取り,それを飲んだ』」。
 輸血についてはどうでしょうか。この方法による実験が始まったのは,16世紀の初めの頃でした。コペンハーゲン大学の解剖学の教授トマス・バルトリン(1616-1680年)は,次のように抗議しました。『病気の内服薬として人間の血を強引に使用する者たちは,血を誤用し,甚だしい罪を犯しているように思える。人肉を食べれば非難される。では,食道を人間の血で汚す者たちを憎悪しないのはなぜか。口を通してであれ,輸血器具を用いた場合であれ,静脈を切って他人の血を取り入れるのは,それと同じことである。こうした手術の考案者たちは,血を食べることを禁じている神の律法によって恐れにとらわれている』。

 現在、「人間の血が,らい病(ハンセン氏病)の最高の治療薬」ということを信じている医師はおりません。「人間の血がてんかんの治療法だ」と信じている医師もおりません。「特定の子供達の血を飲めば、病が回復する」というような迷信を信じている医師もおりません。なぜ、このような何百年も前の医師の言葉を引用するのですか?現代の医師は血液に何らかの薬効があるとは考えておりません。
 「食道を人間の血で汚す者たちを憎悪する」のでしたら、食道静脈瘤の破裂で死にかかっている病人(彼の食道は自分の血液で満たされています)は「憎悪」されるのでしょうか?輸血が臓器移植であり、血を食べる行為とは無縁のものであることに気付いていない17世紀の「解剖学者」(臨床医ではありません)の誤解を指摘するのは我々(現代の医師)の努めです。

 

「神と人では,物の見方が非常に異なっている。我々の目に重要に見えるものが,無限の知恵を持つ方から見るとささいなものである場合は非常に多い。また,我々には取るに足りないと思えるものが,神にとって極めて重要なものである場合も多い。最初からそうであった」―アレクサンダー・ピリ著,「血を食べることの合法性に対する質問」,1787年。

「我々には取るに足りないと思えるものが,神にとって極めて重要なものである場合も多い。」のでしたら、同様に「我々には極めて重要と思えるものが,神にとって取るに足りないものである場合も多い。」のではありませんか?

 

 したがって,過去数世紀の間,考え深い人々は,聖書の律法は口に血を取り入れることと同様,静脈に血を取り入れることにも適用されると理解していました。バルトリンは結論として,「血を取り入れるどちらの方法も,一つの同じ目的にかなっている。つまり,この血によって病人の体は養われ,また回復させられるのである」と述べています。

1680年に亡くなった「解剖学者」の言葉を、まだ信じ続けるのですか?このような迷信を信じる医師は、現代にはおりません。いかに考え深い人であっても、正確な情報がなければ迷信に捕らわれてしまうのは当然です。協会は「エホバの証人」に、「教えに反することを言うものは悪魔の使いである。彼らの甘言を聞いてはならない」と指導するそうですが、釈迦もイエスも悪魔とは堂々と渡り合ったはずです。悪魔から逃げていたのでは、彼らの言葉のどこが神の言葉と違うのか分からないままでしょう。「悪魔は神や救世主の姿を借りて現れる」そうです。2つの勢力が、お互いに「我らの神こそ真の神であり、あなた方の神は真の神ではない(悪魔である)」と主張している場合、どちらが正しいのかは、両者の意見を聞いてみなければ分かるはずもありません。
この文書は協会の主張する「背信者(背徳者)の言葉=悪魔のささやき」とされるかも知れませんが、願わくば「背信者(背徳者)の言葉だから、聞いてはいけない、読んではいけない」というのではなく、「背信者(背徳者)」の言葉のどこが間違っていて、どこを正すべきなのかを、皆さんで研究していただきたいと思います。

 

このように問題のあらましを調べることは,エホバの証人が取っている妥協できない宗教上の立場を理解するための助けになるかもしれません。彼らは命を高く評価し,良い医療を積極的に求めますが,神の首尾一貫した規準に違反しないことを決意しています。つまり,命を創造者からの賜物として尊重する人々は,血を取り入れることによって命を支えようとはしないのです。

命(およびその象徴である血)を「食物」「栄養」「信仰」などの言葉で置き換えてみて下さい。この考え方は、イエスの禁止した「偶像崇拝」そのものではありませんか?イエスは「外から入って行ってその人を汚すことのできるものは何もありません。」とおっしゃいました。
「エホバの証人」が、最も高く評価し、尊重するのは「神の国における永遠の命」です。「永遠の命」が、現実に(あるいは将来)存在するかどうかは別にして、「永遠の命」と「現実の命」を秤にかけるようなことが許されるとは思えません。「永遠の命」を得るために、「現実の命」を見捨てる(絶対に必要な場合にも輸血を拒否する)ような人に「永遠の命」が与えられる筈がありません。神の国において永遠に生きることができるほど、神について詳しく、信仰に厚い人が、どうして悪魔の言葉を聞くと、心が乱されるのでしょう?そんなに弱く、脆い信仰心の持ち主に、神の国で永遠に生きる資格があるのでしょうか?
悪魔の言葉を聞くと耳が汚れるのかも知れませんが、「神の国」で「永遠の命」を得ようとする方は「悪魔」と戦う覚悟が必要なはずです。逃げてばかりいてはいけません。

 

 それでも長年にわたり,血は命を救うという主張がなされてきました。急激な失血にもかかわらず,輸血を受けて急速に回復した患者の症例について語ることのできる医師がいます。それで皆さんは,『この立場は医学的に見てどれほど賢明か,どれほど賢明さを欠いているか』と考えるかもしれません。血液療法を支持するための医学的な証拠が提出されています。ですから,血に関してインフォームド・チョイス(十分情報を与えられた上での選択)を行なうため,様々な事実に精通するのは,皆さん自身の務めなのです。 

その通りです。健康な心臓を失った患者さんに心臓を移植すれば、急速に回復します。「エホバの証人」は心臓移植を受け入れます。
血液を失った患者さんに輸血(=血液を移植)すれば、やはり急速に回復します。「エホバの証人」は輸血は(基本的には自己血輸血でさえ)受け入れません。ともに、どれほど賢明か、また賢明でないかを考えましょう。


「輸血―どれほど安全か」

 考え深い人は,何らかの重大な医療処置を受ける前に,生じ得る益と危険について知ろうとするでしょう。では,輸血についてはどうでしょうか。輸血は現在,医療における主要な手段となっています。患者に純粋な関心を抱く多くの医師は,輸血を施すことについてあまりためらいを感じないかもしれません。血は命の贈り物と呼ばれてきました。

 献血をする人,あるいは輸血を受け入れる人は膨大な数に上ります。カナダでは1986年から1987年にかけて,全人口2,500万人のうち130万人が献血者になりました。「統計の整ったごく最近の年[においては],米国だけで1,200万ないし1,400万単位の血液が輸血に用いられた」―1990年2月18日付,ニューヨーク・タイムズ紙。

 ルイーズ・J・キーティング博士はこう述べています。「血液は常に“魔術的な”特質を持つものとみなされてきた。医師たちも一般の人々も,血液の供給を最初の46年間は実際以上に安全なものと考えた」。(「クリーブランド臨床医学ジャーナル」誌,1989年5月号)その当時はどんな状況だったのでしょうか。また,現在はどうでしょうか。

この後を続けましょう。途中で止めるのは良くありません。
「そのような誤った考え(=血液に魔術的特質がある)は、捨て去らねばならない。また、輸血とは医学的には臓器移植であり多くの副作用があるので、慎重に行わなければならない。しかし、必要な場合は躊躇なく、適切な輸血を行わなければならない。」というのが現代の医師の主張です。

 

30年前でさえ病理学者や血液銀行の職員には,次のような助言が与えられました。「血液はダイナマイトである。非常な善をもたらすこともあれば,非常な害をもたらすこともある。輸血による死亡率はエーテルの麻酔や虫垂切除による死亡率に等しい。約1,000回ないし3,000回に1回,恐らくは5,000回の輸血で約1回死者が出ると言われている。ロンドン地区では,輸血に用いる1万3,000本の血液に対して一人の死者が出ると報告されている」―ニューヨーク州ジャーナル・オブ・メディシン誌,1960年1月15日号。

 医学は日進月歩です。なぜ、38年も昔の文章を引用するのでしょう?このころ、エイズの存在は知られておりませんでしたし、輸血後肝炎の原因も不明でした。エーテル麻酔は20年以上前から、ほとんど行われていません。最近の日本国内における統計(参考文献1、2)では、年間のべ600万〜700万人が1800万単位の献血をし、100万〜160万人が輸血を受けております(数字は推定概算です)。死亡事故は、輸血後GVHDによると確定されたものが1993〜1996年の3年間で41例あるようです(参考文献3)。死亡率にすると、輸血を受けた16万人に1人の割合になりますが、これらはいずれも放射線照射を行っていない血液製剤で生じたもので、信頼できる装置で放射線照射(15〜50Gy)を行いさえすれば「ほぼ完全に輸血後GVHDを防ぐことができる」と考えられています。血液型不適合輸血は輸血5万例に1例くらいの頻度でおこると想像している文献(参考文献4)もありますが、訴訟との絡みなどもあり、実数は不明です(死亡率もあまり高くありません)。麻酔関連死亡事故は1995年の日本麻酔学会の統計(参考文献5)では「麻酔のみが原因の術中死亡率は、1万例につき、0.25例(4万例に1例)でした」。
 かなり古い文献(参考文献6)になりますが、米国では1976〜1985年の10年間に327例の輸血関連死亡報告があり、その頻度は輸血20万例に1例とされています(ただし、肝炎とエイズの症例は除外されております)。

 

 

それ以来さまざまな危険が除かれて,現在の輸血は安全なものとなっているでしょうか。率直に言えば,毎年幾十万人もの人が血液に対して副作用を示し,死亡する人も少なくありません。前述の注解から,血液によって伝染する病気が思い浮かぶかもしれません。それを調べる前に,あまり知られていない幾つかの危険について考慮してみましょう。

 発熱反応など軽微で生命の危険がない副作用を入れればその通りでしょう。日本国内の統計ですが、輸血との因果関係が証明された血清肝炎は、1994〜1996年の調査ではB型肝炎が年間1例(1/159万)、C型肝炎が3年に1人(1/477万)の確率です。但し、この調査は、平成5年(1993年)に日本血液センター中央に医療情報部が設置されて、全国の医療機関からの副作用報告を集計するようになってからのものです。副作用報告数は3年間の間では年毎に増加していますが、その理由は輸血副作用の報告が医療機関から自主的になされるものであり、報告するという習慣に慣れるまで一定の時間が必要なのだと考えられます。従って無論、報告されていないものもあるはずと考えられます。ちなみに、平成8年(1996年)の全国の医療機関からの輸血後肝炎の報告はB型が27例、C型が44例、非B非C型が3例とされています。しかし、献血者の検体をPCRなどで評価して輸血との関連性を証明できたものは少なく、最初に示したB型肝炎1/159万人、C型肝炎1/477万人が「輸血との関連性が高い」と判定されたケースになります。最近のデータでは(第6回赤十字血液シンポジウム、1998年2月28日)、各医療機関からの報告はまだ増加の途上にあり、1997年はB型53例、C型42例の報告があり、そのうちB型肝炎12例、C型肝炎1例が「輸血との関連性が高い」と判定されています。最新のこの報告によりますと、輸血後B型肝炎の頻度は1/13〜14万人に増加することになります。いずれにしても、これらの感染は感染初期でウイルス抗体価が上昇する前(Window period)の献血が原因と考えら、現在のスクリーニング法では防止が困難といわざるを得ないのも事実です。
 エイズ感染は1997年5月頃に新聞でも報道されたように、輸血によると思われるHIV抗体陽性化(=エイズではありません。この不幸な方が将来、エイズを発症する可能性はあります)が1例ありましたが、それ以前は通常の(国内での)輸血による感染は皆無です。1997年の献血血液全体の中の
HIV抗体陽性率は10万人中0.78でした。
 日本全国で3年間に数十名の死亡を「少なくない」と表現することは自由ですが、殆どの良心的医師は「この死亡率は自己血輸血や輸血用血液に対する放射線照射血によって、限りなく0に近づけられる」と主張しております。交通事故で、年に何人の方が亡くなるか、ご存知ですか?交通事故で亡くなる方は少なくない(年間1万人以上といわれます。資料:警察庁交通局「交通事故統計年報」)ので、車を運転するのは止めようと考えるのは個人の自由ですが、それを他人に強制したらどうなるでしょう?世界中から交通手段としての車が消えたら、確かに大気汚染や交通事故は激減するでしょうが、大都市に住む人々が大量に餓死することは疑う余地もありません。そのような世界を平和で暮らしやすい「神の国」と考える宗教もあるようですが.....私には何とも申せません。

参考文献;
1)輸血医療の将来と展望.関口定美:日本医師会雑誌.119(2).1998..p177〜
2)輸血後感染症と輸血事故について.佐藤博行:第5回血液シンポジウム.1997.p125〜
3)輸血後GVHDの基礎と臨床.田所憲治:日本医師会雑誌.119(2).1998..p203〜
4)輸血副作用・合併症および事故の現状.稲葉頌一:第4回血液シンポジウム.1996.p93〜
5)「麻酔関連偶発症例調査1995」について.:麻酔.46(3).1997.p424〜
6)Reports of 355 transfusion-associated death:1976 through 1985.Sazama K.:Transfusion.30.1990.p583〜

 

 


「血とあなたの免疫性」

 20世紀の初頭,科学者たちは血液の驚嘆すべき複雑さを深く理解するようになり,幾つかの異なった血液型があることを知りました。輸血の際には,献血者の血と患者の血を適合させることがすべてを決定します。A型の人がB型の血を取り入れると,由々しい溶血反応を示すことがあります。その結果,その人の赤血球は数多く破壊され,程なくして死亡することもあります。現在では血液型による分類と交差適合試験が普通に行なわれていますが,誤りは確かに生じます。溶血反応によって死亡する人は毎年いるのです。

 ABO型不適合輸血の死亡率は約17.9%(1989;遠山)です。ABO型不適合輸血による死亡事故は、数年に1例の割合でマスコミなどで取り上げられています。全世界で考えれば確かに毎年死亡している人はいるのでしょう。しかし、ABO型不適合輸血というミス自体、滅多におきません。血液型を間違えて輸血をする例は、年間数例(あるいはそれ以上?)生じているものと推測されますが(実態把握は困難)、重篤になる前に異常に気づいて輸血が中止されることのほうが多いようです。また、ABO型不適合輸血事故は、血液型の判定ミスが原因となることは極めて稀で、患者検体のラベルの貼り違え、輸血用血液バッグの取り違えなど、輸血検査とは異なるところで生じています。もちろん油断は大敵ですが、このような稀な事故を恐れるなら、交通事故の方がはるかに恐くて外には出られません。
 なぜ、協会は「交通事故に遭うといけないから、外に出てはいけません」と言わないのですか?それは、そういうことが「馬鹿げている。現実的でない。理性的でない。」からでしょう?ではどうして、「輸血事故に遭うといけないから、輸血してはいけません」と主張するのですか?輸血は確かに、絶対安全な医療行為ではありませんが、輸血以上に危険な医療行為や生活習慣は、それこそ山のようにありますし、絶対安全な医療行為はむしろ例外です。

 

 事実が示すところによると,不適合の問題には,病院が試験を行なう比較的わずかな数の血液型だけではなく,もっと多くの事柄が関係しています。なぜでしょうか。ダグラス・H・ポウジ2世博士は「輸血:その使用と誤用,そして危険」という記事の中でこう書いています。「30年ほど前にサンプソンは輸血を比較的危険な方法と評した。……[その時以来]付加的な少なくとも400種類の赤血球抗原の実体と特質が明らかにされた。赤血球膜は甚だ複雑なものであるから,抗原の数が増え続けることは間違いない」―「国立医師会ジャーナル」誌,1989年7月号。
 「およそ100件につき1件の割合で,輸血には熱,悪寒,あるいは蕁麻疹が伴う。……赤血球輸血では,およそ6,000件に1件の割合で,溶血性輸血反応が生じる。これは深刻な免疫反応で,輸血後急に生じたり,何日かたって現われたりする。その結果,急性腎不全,ショック,血管内凝固,さらには死を招く場合さえある」―米国立衛生研究所(NIH)会議,1988年。

 ABO型不適合以外では(Rh不適合でも、その他でも)死亡することは少なく、ここ数年、国内での死亡報告はありませんし、治療法(免疫抑制剤、人工透析など)も存在します。Rh陽性、陰性というのはRhDについて陽性、陰性であることを指しますが、RhD不適合輸血は確かに重篤な結果を招くことがあります。例えば、RhD陰性の方が妊娠や出産などを契機に感作されて抗D抗体ができた場合、そこにRhD陽性血液が輸血されると重篤な溶血性輸血副作用が生じて生命に関わることもあるのは事実です。
 ところで、米国でバイクの運転をする人は、年間50人に1人が事故により亡くなると計算されています。タバコを吸う人は年間200人に1人が亡くなります。道を歩いているだけで年間20000人に1人の方が亡くなるのです(J McCullough, JAMA,1993より)。数字のマジックに怯えて輸血のみを恐れても仕方ありません。

 

 

 科学者たちは現在,輸血された血液が人体の防御機構,つまり免疫機構に及ぼす影響について研究しています。皆さんにとって,あるいは手術の必要な親族にとって,それは何を意味するのでしょうか。
 医師たちが心臓や肝臓などの器官を移植する場合,移植を受ける人の免疫機構は異物を感じ取ってそれを拒むかもしれません。しかし,輸血は一種の組織移植です。“正しく”交差試験の施された血液でさえ,免疫機構を抑制する恐れがあるのです。病理学者が集まったある会議の席上で,幾百もの医学論文が「輸血を免疫学的反応と関連づけてきた」ことが強調されました。―「輸血を非とする判例が増加」,メディカル・ワールド・ニューズ誌,1989年12月11日号。
 免疫機構の主な仕事は,悪性(ガン)の細胞を検出し破壊することです。免疫が抑制されると,本当にガンになり,死をきたすのでしょうか。次の二つの報告に注目してください。
 雑誌「ガン」(1987年2月15日号)はオランダで行なわれたある研究の結果を次のように伝えました。「結腸ガンの患者の場合,輸血は,長い間生き延びることに関してかなりの悪影響を及ぼすことが分かった。このグループの場合,輸血した患者の48%,輸血をしなかった患者の74%が約5年,生き延びた」。南カリフォルニア大学の医師たちは,ガンの手術を受けた100人の患者に関する追跡調査を行ないました。「喉頭ガンにかかった人のうち,病気が再発した割合は,輸血を受けなかった患者の場合が14%,輸血を受けた患者の場合が65%であった。口腔,咽頭,鼻もしくは副鼻腔のガンが再発する割合は,無輸血の場合が31%,輸血を受けた場合は71%だった」―「耳科学,鼻科学,喉頭科学の年報」,1989年3月号。
 デンマークの科学者ニールス・ヤーヌは1984年のノーベル医学賞を受賞しました。彼は輸血を拒否した理由を尋ねられ,「人の血液は指紋のようなものである。2種類の血液がそっくり同じであるということはない」と語りました。
 それらの研究は輸血に関して何を示唆しているでしょうか。ジョン・S・スプラット博士は「輸血とガン手術」という論文の中で,「ガンの手術を行なう医師は,無輸血手術を行なう外科医になる必要があるかもしれない」という結論を下しています。―「アメリカ外科ジャーナル」誌,1986年9月号。

 確かに、「輸血は一種の組織移植です」。それ以上でも、それ以下のものでもありません。では、なぜ協会は骨髄移植や腎移植、心臓移植は認めて「血液移植=輸血」は認めないのですか?血液だけを特別扱いしているのは医師ですか、協会ですか?
 統計(特に、医学統計)からものを判断するときはトリックに気を付けて下さい。輸血を受けた癌患者の5年生存率や再発率が悪いのは、輸血を必要とした患者の癌は「より悪性度が高く、進行しており、より大きな手術を必要とした」ことと無縁ではないでしょう。原因と結果(因果関係)を混同してはいけません。免疫抑制は確かに無視できない問題ですが、それに全ての責任を押しつけることはできません。
 ニールス・ヤーヌが輸血を拒否するのは、彼の自由ですが、「相対的輸血拒否」と「絶対的輸血拒否」は、「現実の命」と「永遠の命」に対する尊敬心や考えが全く異なるものです。彼の輸血拒否が、どちらであるのかは私には分かりませんし、関係もありません(他人に強制しなければ、個人の自由です)。

 

 免疫機構のもう一つの主な仕事は,感染を防ぐことです。ですから,輸血を受けた患者は感染症にかかりやすいことを示す研究があるのもうなずけます。P・I・タッター博士は結腸直腸の手術に関する研究を行ないました。輸血を受けた患者のうち,25%に感染症が見られたのに対し,輸血を受けなかった患者で感染症が見られたのは,4%でした。同博士は次のように伝えています。「輸血は,手術前,手術中,手術後のいつ行なわれたものであろうと,感染性合併症と関連していた。……手術後の感染の危険は,投与された血液の単位数に応じて,徐々に増し加わった」。(「英国外科ジャーナル」誌,1988年8月号)
 1989年に開かれたアメリカ血液銀行協会会議に出席した人々は,股関節置換術に際して輸血を受けた人の23%に感染症が見られたのに対し,輸血を受けなかった人には感染症が全く見られなかったことを学びました。

 輸血感染症と免疫抑制による細菌・ウイルス感染は、別の病気です。1989年と言えば、C型肝炎のスクリーニングが実用化されたばかりです。この時期に報告された「輸血による血清肝炎の感染率」が非常に高かったことは、悲しいことではありますが、免疫抑制とは関係ありません。
 あなたは、今までに風邪のウイルスに感染したことがないのですか?感染症には治るものと治らないものがあります。従って、
重要なのは「何に」感染したかです。それを明らかにせずに、医学文献の一部を抜き出して利用するのは、賢明ではありません。

 

 ジョン・A・コリンズ博士は輸血が及ぼすこの影響について「価値あることを成し遂げるという証拠に非常に乏しい“治療”が,そうした患者の直面する主要な問題の一つを結果的に深刻化させることになるとしたら,それは実に皮肉なことであろう」と書きました。―「世界外科ジャーナル」誌,1987年2月号。

 「価値あることを成し遂げるという証拠に非常に乏しい“治療”」が何を指しているのか不明です。おそらく「必要性に乏しい状況での輸血」を非難しているのであって、「輸血」そのものが「価値あることを成し遂げるという証拠に非常に乏しい“治療”」と言っているのではないでしょう。語学力の貧しさからくる、単純な誤解です。


「病気から解放されるのか,それとも危険が伴うのか」
 血液によって伝染する病気は,良心的な医師や多くの患者の心配の種になっています。どの病気のことでしょうか。率直に言って,それを一つに限定することはできません。実に多くの病気があるのです。

 この意見は全くの正論です。輸血は臓器移植の1種であり、多くの危険を伴います。現代の医師は輸血の危険をよく理解して、できるだけ同種輸血を避けようとしています。
 そのための1方法が低血圧麻酔ですが、これは「かなり危険な麻酔方法」です。麻酔専門医の立場から言わせていただけば、「できれば、やりたくない」のです。脳梗塞や心筋梗塞、不整脈や心停止を起こす危険が皆無ではないからです。
 代用(人工)血液は正確には人工赤血球と呼ぶべきものですが、まだ臨床使用が可能とはなっておりません。また、使用可能となっても、ヘスパンダーや低分子デキストランなどの代用血漿と同じ問題(血液凝固因子の欠如)は残されたままです。血小板や新鮮凍結血漿の代用物は、いまだに開発の目途さえ建っておりません。
 現在臨床的に可能な、最も安全な輸血は貯留式自己血輸血であることは間違いありません。なぜ「エホバの証人」は、心臓移植や腎移植、骨髄移植は受け入れても、「最も安全な輸血」である「貯留式自己血輸血」を認めないのですか?

 

「輸血の技術」(1982年)は一層よく知られた病気について論じた後に,梅毒,サイトメガロウイルス感染症,マラリアなど,「輸血と関係のある他の感染症」の名を挙げています。次いでその文献は,「ほかにも,輸血によって伝染すると言われている数種の病気がある。その中には,ヘルペスウイルス感染症,感染性単核細胞症(エプスタイン-バーウイルス),トキソプラスマ症,トリパノソーマ症[アフリカ睡眠病,シャガス病],リーシュマニア症,ブルセラ症[波状熱],発疹チフス,フィラリア症,はしか,サルモネラ症,コロラドダニ熱などが含まれる」と述べています。
 法王は射撃されたものの,命は取りとめました。法王は退院後に「非常な苦しみを経験し」,2か月再入院することになりました。なぜでしょうか。体内に取り入れた血液を通して,死をきたす恐れのあるサイトメガロウイルスに感染したのです。

 すべて、輸血によって感染する可能性があると言っているに過ぎません。頻度は述べられておりませんが、少なくともここ数年、日本国内で輸血による「梅毒,マラリア,EBウイルスによる伝染性単核球症,トキソプラスマ症,トリパノソーマ症[アフリカ睡眠病,シャガス病],リーシュマニア症,ブルセラ症[波状熱],発疹チフス,フィラリア症,はしか,サルモネラ症,コロラドダニ熱」の発生した記録はありません。私の知る限り日本で輸血によるマラリアに感染して死亡した症例が1991年に発生したというものが最後の報告(本邦のマラリア感染症と輸血.狩野繁之.:第4回血液シンポジウム.1996.p37〜)です。
 サイトメガロウイルス(CMV)は日和見感染です。免疫能や抵抗力の低い、新生児や老人、癌末期患者、エイズ患者などでは問題になりますが、健康な成人ではまず心配ありません。特に、日本人の成人は80−90%の人がこのウイルスの抗体を持っています。少なくともここ数年、
国内での死亡例は報告されておりません

付)サイトメガロウイルスについて: サイトメガロウイルスcytomegalovirusは、ヘルペスウイルス属のウイルスですが、他のヘルペスウイルス(EB ウイルス、水痘帯状疱疹ウイルス、単純ヘルペスウイルス、カポジ肉腫ウイルスなど)と同じように、一旦感染すると終生体内に存在し続けます。ホスト(宿主)の免疫力で活性化を抑えているのですが、排除するには至りません。何らかの理由で免疫能力が低下すると、口唇ヘルペス、帯状疱疹、CMV間質性肺炎・網膜炎、EBV日和見リンパ腫、カポジ肉腫などが生じる可能性はあります。これらはもともと本人が持っているウイルスですから内因性感染であって、輸血による外因性感染を問題にするのは、基本的には未感染者の場合です。また免疫不全患者(免疫抑制療法を受けている臓器移植患者を含む)も問題になりそうで、既感染者であっても余計なウイルスを外から持ち込みたくないという意識は、確かに働きます。しかし、CMV既感染者の骨髄移植に際してCMV陰性血液を輸血してみても、CMV感染症が減少したという有意の成績は得られません。外因性ウイルス感染ではなく、内因性ウイルスの活性化のほうがCMV感染症には大きな意味を持っているというデータです。今の所、人間はCMV、EBVなどのヘルペスウイルス属のウイルスを完全には排除できず、活性化を抑えているだけです。輸血の有無とは関係なく、免疫のバランスが崩れればいつウイルスが優位になるかもわからないのが、ヘルペスウイルスによる感染症の特徴です。CMV抗体検査は輸血用血液製剤として適当かどうかを判断する検査ではないので、抗体検査導入と死亡例との間には関連性がありません。CMV抗体検査をするのは「CMV抗体陰性血液製剤の需要があるため」で、CMV未感染の子供などの臓器移植・先天性免疫不全症の輸血に際して必要と考えられることがあるからです。ほとんどの献血血液はCMV抗体陽性者からなされており、血液製剤として毎日輸血されております。CMV抗体陰性とわかった方については名前や連絡先を血液センターが控えておき、将来CMV陰性血液製剤を欲しいとの医療機関からの要望があった時にこれらの方に献血を依頼するというシステムになっています。

 

 事実,そうした病気のリストは長くなりつつあります。皆さんは,「輸血でライム病? 可能性は薄いが,専門家は慎重」といった見出しを見たことがあるかもしれません。ライム病の検査で陽性だった人の血はどれほど安全でしょうか。健康問題担当の政府関係者の一団に,そのような血を受けるかどうかという質問がなされました。「その全員が,ノーと答えたが,そのような献血者の血液を放棄することを推薦した人は一人もいなかった」ということです。一般の人々は,専門家自身も受け入れない,銀行に預けられている血液についてどう感じるべきでしょうか。―1989年7月18日付,ニューヨーク・タイムズ紙。
 心配の理由の二つ目は,特定の病気が蔓延している国で集められた血液が,一般の人々も医師たちも危険に気づいていない遠くの場所で用いられる可能性があることです。今は難民や移民を含め,旅行する人が増えているので,血液製剤の中に新奇な病気が含まれている危険は高まりつつあります。
 さらに,感染症の一専門家は次のような警告を発しています。「白血病,リンパ腫,痴呆[アルツハイマー病]など,以前には感染するとみなされなかった数種の障害の伝播を防ぐため,供給血液を検査しなければならないかもしれない」―「輸血医学レビュー」誌,1989年1月号。

 日本で輸血によるライム病が発生したという話は、聞いたことがありません。また、日本国内における輸血用血液は、完全に自給自足されております。
 輸血で感染する白血病は成人T細胞白血病(adult T cell leukemia; ATL)という病気で、日本に多いので有名です。ATLの原因ウイルスはHTLV-Iと判明しておりますが、1986年の抗体スクリーニング開始以来、
輸血による感染の報告はありません。HTLV-Iは性行為でも感染すると考えられてはいますが、母から子への母乳を通じた垂直感染が基本的な感染経路で、これを断ちさえすればHTLV-I感染症は絶滅することも可能と考える医師もおります。
 リンパ腫はEBウイルスによるバーキットリンパ腫のことでしょうが、EBウイルスはCMVよりも更に抗体陽性率が高く、
成人のほとんどが既感染です。抗体検査の必要はなく、献血時に過去6カ月以内の伝染性単核球症(EBウイルスが原因です)がある場合は献血を受け付けないという規定があります。輸血による伝染性単核球症は、私の知る限り報告はありません。
 痴呆はプリオンによるクロイツコフ・ヤコブ病(CJD)のことでしょう。
アルツハイマー病が輸血で感染したという報告はありません。CJDに関しては、現在のところスクリーニング法が開発されていないので、問診で脳硬膜移植・角膜移植・ヒト下垂体由来成長ホルモン使用歴などがあればチェックしていますが、CJDが血液、あるいは血液由来の製剤で感染したという報告はありません。
 以上から明らかなように、
日本赤十字社から供給される血液は、かなり安全です。ただ、絶対に安全とは言えないのも事実です。だからこそ、自己血輸血を推奨しているのです。

 

 これらの危険は背筋の寒くなるようなものですが,それよりもずっと広範に恐れをもたらしている他の危険もあります。シャガス病は,血液が辺ぴな場所に住む人々に病気を運ぶことを示す好例です。メディカル・ポスト紙(1990年1月16日付)は『中南米の1,000万ないし1,200万の人々が慢性的に感染している』ことを伝えています。それは「南米における輸血に関連した最も由々しい危険の一つ」と呼ばれてきました。“殺し屋カメムシ”が,眠っている人の顔を刺し,血を吸い,傷口に糞をするのです。その人は致死的な心臓合併症を起こすまで,何年もシャガス病の保菌者となっていることがあります(その間に献血をすることもある)。
 遠くの大陸に住む人々がこの問題で頭を痛めているのはなぜでしょうか。L・K・アルトマン博士はニューヨーク・タイムズ紙(1989年5月23日付)上で,輸血後にシャガス病にかかった患者たち―そのうちの一人は死亡―について報告し,こう書きました。「[ここの医師たちは]シャガス病に精通しておらず,この病気が輸血によって広まることも理解していないので,このほかにも幾つもの症例が発見されぬまま進行していた可能性がある」。そうです,血液は病気が広範に伝わる手段となり得るのです。

 梅毒やエイズ、肝炎は性行為によっても伝染します。EBVは唾液によって感染し、思春期に初感染すると生じる伝染性単核球症が別名kissing diseaseと言われているのは余りにも有名です。インフルエンザは咳や呼吸によって空気感染します。輸血が病気を広めるから禁止するのでしたら、性行為やキス、咳、呼吸することも禁止するべきではないでしょうか。なお、日本では輸血が原因でシャガス病が発生したという報告は聞いたことがありません。


「エイズの世界的流行」
 「エイズは血に関する医師と患者の考え方を永久的に変化させた。それは悪い考えではない,と輸血に関する会議のため全国健康協会に集まった医師たちは語った」―1988年7月5日付,ワシントン・ポスト紙。
 エイズ(後天性免疫不全症候群)の世界的流行は,血液から感染症にかかる危険があることに対して,徹底的に人々の目を開かせました。現在この病気に感染している人は幾百万を数えます。エイズは手の施しようがないほどに広まっており,その死亡率は事実上100%に達しています。
 エイズの原因となっているのはヒト免疫不全ウイルス(HIV)であり,血液を介して広がります。現代のエイズ禍が明るみに出たの1981年ですが,健康問題の専門家たちはその翌年,エイズウイルスが血液製剤を通して伝染する可能性が十分にあることを突き止めました。現在では,HIVの抗体を含む血液を見分ける検査が実施できるようになった後でさえ,血液業界の反応は遅かったと言われています。献血者の血液検査はやっと1985年に始まりましたが, その時も,すでに在庫している血液製剤に関する検査は実施されませんでした。
 その後,『現在,供給される血液は安全です』という保証が一般の人々に与えられたものの,時たつうちに,エイズの危険な“ウインドウ・ピリオド(潜伏期間)”の存在が明らかにされました。人が感染した後,検出可能な抗体を作り出すまでに何か月もかかることがあるのです。感染した当人はウイルスが潜在しているとは知らずに,検査の結果が陰性の血液を献血するかもしれません。そのようなことが実際に生じました。人々はそのような血液を輸血された後,エイズになっているのです。
 状況はいよいよ厳しくなっています。ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン誌(1989年6月1日号)は,“HIVの静かな感染”について伝えました。人が何年もエイズウイルスを保有していても,現在の間接的な検査ではウイルスが発見されない場合があるという事実が確定されたのです。そういう例はまれにしかない,と問題を軽く見たがる人もいますが,ここに挙げた例は,「血液およびその成分を介してエイズが伝染する危険は,完全には除去できない」ことを示す証拠なのです。(「患者の世話」,1989年11月30日号)そこで頭の痛い次のような結論が導き出されます。つまり,検査の結果が陰性でも,それは健康に異常がないことを保証する診断書ではないということです。今後どれほどの人が血液を通してエイズにかかるのでしょうか。

 主な輸血用血液製剤の有効期間は72時間(血小板)から長くても1年(新鮮凍結血漿)です。過去の血液は全て破棄されております。日本では、1997年の献血血液全体の中のHIV抗体陽性率は10万人中0.78でした。それほど稀ではありますが、そのわずかな危険を避けるためにも日本赤十字社(献血事業団)は多大な努力と費用を払い、医師も自己血輸血を推進しようと努力しております。
 
エイズ(を始め、輸血によって感染する可能性のある病気の幾つか)は、基本的には性行為感染症です。「エイズの原因となっているのはヒト免疫不全ウイルス(HIV)であり,血液を介して広がります。」という表現は間違ってはおりませんが不正確(不十分)です。今後どれほどの人が性行為を通してエイズにかかるでしょうか。輸血によるエイズ感染の数千倍から数万倍になることは確かですが、協会は「エホバの証人」に性行為を禁止しているのでしょうか?。
 日本では(「エホバの証人」が受け入れていない)国内での日赤血輸血によるエイズ発症は報告されておりません(HIV抗体陽性は1例だけ報告されています)。むしろ、(「エホバの証人」が受け入れている)血友病治療薬でこそエイズが多発したことは有名な事実です。輸血によるエイズの報告は、日本でも皆無ではありませんが、ほとんど海外での輸血が原因です(輸血副作用・合併症および事故の現状.稲葉頌一:第4回血液シンポジウム.1996.p93〜)。

 


「次の靴は一つか,幾つもあるのか」
 マンションに住んでいる人の多くは,階上の床をドスンと踏み鳴らす靴の音が聞こえると,次の靴音がいつするかと考え,気が張りつめるかもしれません。血液に関する難しい問題の場合,これからどれほど多くの致死的な靴音が聞こえるか,だれにも分からないのです。
 エイズウイルスはHIVと呼ばれていますが,専門家の中にはそれをHIV-1と呼ぶようになった人もいます。なぜでしょうか。もう一つのタイプのエイズウイルス(HIV-2)を発見したからです。このウイルスはエイズの症状を生じさせ,ある地域で広まっています。さらに,ニューヨーク・タイムズ紙(1989年6月27日付)が伝えるところによると,このウイルスは,「現在ここで使用されているエイズ検査で必ず検出できるわけではない」のです。
「この新しい発見により,……血液銀行が献血の安全性を確認することは,いよいよ難しくなる」ということです。
 では,エイズウイルスの遠い親類に当たるウイルスについてはどうでしょうか。ある大統領委員会(米国)は,それらのウイルスの一つが,「成人T細胞白血病/リンパ腫,および神経学的な由々しい病気の原因とみなされている」と述べました。このウイルスはすでに献血者たちのうちに存在し,血液を通して広まる可能性があります。『血液銀行によるそれら他のウイルスの検査は,どれほど効果的なのか』と人々が考えるのも当然です。
 クヌーズ・ルン・オレセン博士は,こう書きました。「危険性の高いグループに属する人々の中には,エイズの検査を自動的に受けることになるという理由で,自発的に献血をする人がいる。……そのことを考えると,輸血を受けることをちゅうちょすべき理由があると思う。エホバの証人は多年にわたり輸血を拒否してきた。彼らは将来を見越していたのだろうか」―「ドクターズ・ウイークリー」,1988年9月26日号。

 「エホバの証人」は、つい最近まで、多年にわたり「予防接種」や「臓器移植」を拒否してきました。そのために救われる筈の、多くの人命が失われたのも事実です。日本ではエイズ検査の目的で献血をすることは禁止されておりますし、問診でチェックされます。何度も申しますが、国内の輸血用血液でエイズを発症した人は皆無、HIV抗体が陽性化した方が1名おられるのみです。

 

 実際,血液によって伝染するウイルスが,供給される血液にどれほど潜んでいるかということは,時間がたってみなければ分かりません。ハロルド・T・メリーマン博士は,「既知の事実よりも未知の事柄のほうが大きな心配の種になっているのかもしれない」と書きました。「潜伏期が多年にわたる伝染性のウイルスと輸血の関係を明らかにするのは難しく,そうしたウイルスを検出するのはもっと難しい。確かにHTLV(ヒトT細胞白血病ウイルス)のグループは,そうしたウイルスのうち,表面に出てきた最初の例に過ぎない」。(「輸血医学レビュー」誌,1989年7月号)「あたかもエイズ禍では苦痛が足りないかのように,……1980年代には,輸血に伴う,新しく提唱もしくは説明された,数多くの危険に注意が促された。ほかにも深刻なエイズ性疾患があり,それが同種輸血によって伝染することは,さほど大きな想像力を働かさずとも予測できる」―「同種感染を抑える: その代替策」,1989年。
 すでに多くの“靴”が落とされてきたため,疾病対策センターは“全面的警戒”を呼びかけています。つまり,『医療関係者は,すべての患者がHIVなど,血液によって伝染する病原体に感染しやすいと考えるべきである』というわけです。医療関係者と一般の人々が血液に対する自分の見方を再評価していることには,もっともな理由があるのです。

その通りです。そのための最良の方法の一つが「貯留式自己血輸血」です。


「血,損なわれた肝臓,そして……」

 「皮肉なことだが,血液によって伝染するエイズが……例えば肝炎などの他の病気ほど大きな脅威になったことはなかった」と,ワシントン・ポスト紙は説明しました。
 そうです,そのような肝炎のために非常に大勢の人が重い病気にかかり,死亡しました。肝炎に効く特別な治療法はないのです。「US・ニューズ・アンド・ワールド・リポート」誌(1989年5月1日号)によると,米国で輸血を受けた人のおよそ5%は肝炎になっています。その数は年間17万5,000人に上ります。そのうちの約半数は慢性的な保菌者となり,少なくとも5人に一人は肝硬変か肝臓ガンにかかります。4,000人は死亡するものと推定されています。ジャンボジェット機が墜落して乗客全員が死亡したなら新聞にどんな見出しが載るか,想像してください。しかし4,000人の死者というのは,満員の客を乗せたジャンボジェット機が毎月墜落するのと同じことなのです。

 1989年当時、輸血後肝炎の殆どはC型肝炎でした。この肝炎の原因ウイルスの検査が可能になったのは、1988年からです。この後、輸血後肝炎の発生はかなり減少しました。詳しくは、輸血情報9705-37(副作用発生頻度)に情報がありますが、 1989年11月以前(HCV抗体検査以前)7.2〜16.3%、 1989年11月〜1992年2月(第一世代ELISA法検査開始)2.4〜5.2%、 1992年2月〜(第二世代ELISA法検査開始)0〜1.1%と考えて良いようです。
 上のレポートで報告されている17万5,000人の方が、すべて適切な(医学的に正当な根拠のある)輸血を受けたのでしたら、無輸血にこだわった場合の死亡者数は、4000人をはるかに越えるでしょう。おそらく17万5,000人の1/3(5万人)以上が死亡したことでしょう。
医学とは「予想される障害を、いかに少ない危険で乗り越えるか」ということを研究する学問です。絶対安全な医療行為や薬は存在しないのですし、それを求められても困ります(努力はしていますが)。医学者(医師)は、それを理解し、その前提で議論をします。その前提を理解していない人や一部のマスコミとは、議論になりません。

 

より軽い肝炎(A型)が不潔な食物や水を通して広がることは,昔から医師に知られていました。その後医師たちは,より重い肝炎が血液を通して広がることを理解したものの,それに対処する血液検査の方法がありませんでした。やがて頭脳明せきな科学者たちがこのウイルス(B型)の“指紋”の検出法を学び,1970年代の初期までに,一部の国において血液検査が行なわれるようになりました。血液の供給は安全に,血液の将来は輝かしく見えました。しかし,実際はどうだったのでしょうか。
 程なくして,検査済みの血液を輸血された幾千幾万という人でさえ肝炎にかかることが明らかにされました。病気が悪化してから,肝臓が損なわれていることに気づいた人も少なくありませんでした。しかし血液の検査が済んでいたのであれば,なぜそのようなことが起きたのでしょうか。血液の中に非A非B型肝炎(NANB)と呼ばれる新型のウイルスが含まれていたのです。このウイルスによって輸血には10年間災いが伴い,イスラエル,イタリア,日本,スペイン,スウェーデン,米国で輸血を受けた人の8ないし17%がこの肝炎にかかりました。
 その後,「謎の非A非B型肝炎ウイルスの分離,ついに成功」,「血液をめぐる興奮は収まる」といった見出しが新聞をにぎわすようになりました。そこでまたもや,『謎に包まれていた物質が発見される』といったニュースが伝えられ,1989年4月には一般の人たちに対して,NANBの検査が可能になったと発表されました。現在NANBは,C型肝炎と呼ばれるようになっています。
 あなたは,このように安心するのは時期尚早ではないかとお考えになるかもしれません。事実,イタリアの研究者たちは,突然変異体である別の肝炎ウイルスについて報告しています。肝炎の3分の1はこのウイルスに起因するようです。「ハーバード大学医学部ヘルスレター」(1989年11月号)は,「一部の権威者は,肝炎のウイルスを表わすアルファベットとしてA,B,C,Dだけでは不十分ではないかと心配している。まだまだ別のウイルスが出てくるかもしれない」と述べました。ニューヨーク・タイムズ紙(1990年2月13日付)によれば,「専門家たちは,ほかにも肝炎の原因となるウイルスがあることを確信している。もしそれが発見されれば,E型肝炎といった類の名がどんどん付けられるであろう」ということです。

 前にも述べましたが、肝炎に限らず、輸血によって感染する可能性のある病気の幾つかは基本的に性行為感染症です。今後どれほどの人が性行為を通して肝炎にかかるでしょうか。輸血による肝炎感染の数千倍から数万倍になることは確かですから、輸血だけを悪者にしても何も解決しません。 

 

 血液銀行は血液の安全性を確保するための検査について,さらに時間をかけて研究するのでしょうか。米国赤十字社の一理事は,経費の問題を引き合いに出し,「広まってゆく可能性のある感染物質の各々に関して,検査に次ぐ検査を行なうことなどできない」と述べています。―「メディカル・ワールド・ニューズ」誌,1989年5月8日号。
 B型肝炎の検査法でさえ誤ることがあります。今でも多くの人が血液を通してこの肝炎にかかっています。さらに,人々はC型肝炎に関する発表された検査法に満足するでしょうか。「アメリカ医師会ジャーナル」誌(1990年1月5日号)は,この病気の抗体が検査によって検出されるまでに1年はかかるかもしれない,と述べました。一方,輸血をされた人々は,損なわれた肝臓,そして……死に直面するかもしれないのです。
 すべての血液の検査が行なわれているとは判断できません。例えば,1989年の最初の時点で,ブラジルの血液銀行の約8割は政府の管理下になく,エイズの検査も受けていないと報告されています。

 だからこそ、自己血輸血を推薦するのです。自分の血液を輸血するのなら、肝炎やエイズには感染しません。輸血しなければ、確実に死ぬという状況で、将来の肝炎を心配しても始まりません。医療とは、今現実に存在する死の危険や苦痛に対処することを第一に考えることです。将来のことを心配する予防医学も大切な医学ですが、優先順位を間違えてはいけません。
 ここは日本です。日本での輸血事業を一手に引き受けている日本赤十字社は非営利目的の慈善団体です。日本では売血は禁止され、輸血事業は営利団体には許されておりません。日本の輸血は、完全に国内で自給自足されています。国内では、過去何年も、GVHD以外の輸血死亡事故は報告されておりません。

 


「輸血に代わる良質の医療」
 『輸血は有害だが,それに代わる良質の医療があるのだろうか』と,あなたはお考えになるかもしれません。これは適切な質問です。そして「良質」という言葉に注目してください。
 エホバの証人を含め,だれもが良質で効果的な医療を望んでいます。グラント・E・ステファン博士は二つの大切な要素を指摘し,こう述べました。「良質の医療とは,その治療に備わっている要素によって,合法的な医学上および非医学上の目標を達成する能力のことである」。(「アメリカ医師会ジャーナル」誌,1988年7月1日号)「非医学上の目標」の中には,患者の倫理観や,聖書に基づいた患者の良心を踏みにじらないことが含まれるでしょう。―使徒 15:28,29。

 もちろん、それ(患者の倫理観や,聖書に基づいた患者の良心)は最大限尊重いたします。「だれもが良質で効果的な医療を望んでいる」のは当然ですし、医師も含まれます。ただ「輸血は有害だが,それに代わる良質の医療も全く無害ではない」ことは、知っておいて下さい。全ての人間が神のように万能ではないのと同様に、医師(医学、医療)もまた万能ではありません。「輸血に代わる良質の医療」が万能であると想像することは、危険です。

 

「我々は次のように結論せざるを得ない。つまり,現在は,種々の血液成分を取り入れていても,輸血の益にあずかる見込みがなく(血液は必要でない),それでいて,望ましくない結果を招く重大な危険にさらされている患者が多いということである。医師であれば,事情を知りながら,必ず害をもたらすような療法に患者をさらすことはないであろう。しかし,不必要に輸血が施される時には,その通りのことが起こるのである」―「輸血によって伝染する,ウイルス性疾患」,1987年。

 「不必要に」という言葉を無視しないで下さい。「輸血の益にあずかる見込みがなく(血液は必要でない)」は「血液が必要ない場合」の方が適切です。

 

 血液を使用せずに医療上の重大な問題に対処できる,合法的かつ効果的な方法はあるのでしょうか。幸いなことに,その方法はあります。
 大多数の外科医は,絶対に必要とされる場合にのみ輸血したと主張しますが,エイズが流行し始めた後,医師が血液を用いる件数は急激に減少しました。「メイヨークリニックの処置法」(1988年9月号)の一論文は,「この疫病のもたらした幾つかの益の一つ」は,「輸血を避けようとする患者の側でも医師の側でも,結果的に種々の対策が考え出されたことである」と述べました。血液銀行の一職員は,「実際に変化したのは,メッセージの強さ,メッセージに対する臨床家の受容度(危険に関する理解が深まったため),そして代替療法を考慮するよう求める声である」と説明しています。―「輸血医学レビュー」誌,1989年10月号。

その通りです。医学は日進月歩で進歩しています。過去の過ちを反省し、多くの改善が行われています。「エイズが流行し始めた後,医師が血液を用いる件数は急激に減少した。」ことは事実ですが、これは不必要な輸血の削減と自己血輸血などを推奨・推進した努力の賜物です。

 

心肺装置は,輸血を望まない患者に心臓手術を施すに当たって,大きな助けになってきました

人工心肺装置は、開心術の際に、心臓を止めても手術ができるように開発されたものです。輸血を削減するためのものではありません。協会の文書には「医学的な誤り」が多すぎます。医学についてこんなにも無知な人間が、医療について発言するのはご遠慮下さい。

 

 代替療法があることに注目してください。このことは,輸血が施される理由を調べてみるとよく分かります。赤血球内のヘモグロビンは,健康と命に必要な酸素を運びます。ですから,もし人が大量の血液を失うなら,それをただ単に補充するのは道理にかなったことだと思えるかもしれません。普通は100ccの血液に14ないし15gのヘモグロビンが含まれています。(濃度を測定する別の尺度はヘマトクリット値であり,約45%が普通の値です。)ヘモグロビンが10g(ヘマトクリット値が30%)を下回ったなら,手術前に患者に輸血を施すことが“ルール”として受け入れられています。スイスの雑誌「ボックス・サンギニス」(1987年3月号)は「麻酔専門医]の65%は,緊急を要しない手術の場合,患者の手術前のヘモグロビン量が100cc中10gに達していることを要求した」と伝えました。

 ヘモグロビン Hb が10g(ヘマトクリット値 Ht が30%)を下回ったなら,手術前に患者に輸血を施すことが“ルール”として受け入れられていたのは、過去の話です。この値(Hb10/Ht30)は輸血が必要になる「安全限界値」ではありません。血液の酸素運搬能が最大となる理想値なのです。血が濃すぎると血液の粘稠度が増して、血が流れにくくなります。逆に薄すぎると、十分な酸素が送れません。丁度良いのがこの値ということです。
 「(10年前の)麻酔専門医の65%は,緊急を要しない手術の場合,患者の手術前のヘモグロビン量が100cc中10gに達していることを要求した」のは、「
手術前に十分な時間的余裕があるのなら、貧血の原因を調べ、その治療(鉄剤、ビタミンB12、エリスロポエチンなど)をして欲しい」という意味です。「輸血しろ」という意味ではありません。「緊急を要する手術」では、そのような要求はしないという意味ですし、「緊急を要しない手術」でも(10年前の)麻酔専門医の35%は、そのような要求はしなかったということです。この65%という数字は、今ではもっと低くなっているでしょう。

 

 しかし,1988年に開かれた輸血に関するある会議では,ハワード・L・ツァオダー教授が,「我々はどのようにして“マジック・ナンバー”を得たのか」と問いかけ,次のように率直な発言を行なっています。「麻酔をかけられる前に患者のヘモグロビン量は10gに達しているべきであるとする要求がなぜあるのか,その理由は伝統によって覆い隠され,あいまいさに包まれている。臨床的あるいは実験的な証拠に裏づけられてもいない」。考えてみてください。『あいまいで裏づけのない』要求によって,大勢の患者に輸血が施されているのです。

 前に述べたとおり、このマジック・ナンバー(Hb 10/Ht 30)には科学的根拠(「最新麻酔科学」をお読み下さい)があります。教授がそれを知らなかった(どんな立派な人でも知らないことがあるのは当然です)のか、「安易な輸血」を警告するために大袈裟な表現をしただけでしょう。今では、このような場合、増血剤でなく輸血を選択する医師はほとんど居りません。ただ、悪性腫瘍から持続的に出血している場合や白血病などで造血機能が障害されている場合など、増血剤で対応できない高度な慢性貧血は例外です。

 

 ある人々は,『ヘモグロビン量が14よりずっと少なくてもやってゆけるのに,どうして14が普通とされているのか』と考えるかもしれません。それは,ヘモグロビンがそれだけあれば,酸素運搬能がかなり蓄積されることによって,運動や重労働の備えができるからです。貧血の患者を研究した結果,「ヘモグロビン濃度が100cc中7gという低さでも,労働能力に欠陥を見いだすのは困難である」ことさえ明らかになっています。「機能がやや損なわれるに過ぎないことを発見した人もいる」のです。―「今日における輸血の習慣」,1987年。
 大人はヘモグロビン量が少なくても順応できるとしても,子供はどうでしょうか。ジェームズ・A・ストックマン3世博士はこう述べています。「未熟児はわずかな例外を除いて,最初の1か月ないし3か月間,ヘモグロビンの減少を経験する。……育児室という環境でどんなときに輸血を施すべきか,その方針は明確に定められていない。実際,多くの乳幼児はヘモグロビン濃度がかなり低くても,見たところ臨床上の困難な問題もなく,それに耐えているように思える」―「北アメリカの小児科診療所」,1986年2月号。

 これは広く認められた考えです。現在では、「予想出血量が少ない手術であれば、Hbは7g/dlでも耐えられる。」と言われております。ただ「機能がやや損なわれる」ことは間違いありませんし、貧血の検査や治療が必要ないわけではありません。子供では正常値が大人とは違いますから単純な比較はできませんが、基本的には同じ事が言えます。給料(や貯金)が14万円ある人と、7万円の人が、全く同じ生活ができるはずがありません。医師ならみんな知っているべき事ですし、実際、知っております。

 

「ある権威者たちは,ヘモグロビンの量が100cc中2ないし2.5gまで下がっても受け入れられる,と述べている。……健康な人なら,赤血球細胞全体の50%を失っても耐えることができ,失血が幾らかの期間にわたって生じるなら,ほとんど全く症状は現われない」―「輸血の技術」,1982年。

 ここは非常に誤解を招きやすい表現です。誰が書いた(訳した?)のか知りませんが、とんでもない日本語です。というより、意図的にそうとれるように改竄(途中の文を省略)されているのです。「ある権威者たちは,ヘモグロビンの量が100cc中2ないし2.5gまで下がっても受け入れられる」というのは、「慢性貧血なら、この値でも、かろうじて生きていられる」という意味です。これは事実です。この状態で「ほとんど全く症状は現われない」のではありません。
 「ほとんど全く症状は現われない」のは、「健康な人が、慢性貧血によって赤血球細胞全体の50%を失った」場合です。この時のHbは正常値(14g/dl)の半分ですから「7g/dl」ということです。
Hbが2.5g/dlの人が元気であるということではありません。Hbが2.5g/dlの人は、かろうじて生きているのであり、別の言い方をすれば「殆ど死にかけている」のです。
 例え話をさせて下さい。あなたは月給が2.5万円でも、全てを犠牲にすれば、何とか生きていけるでしょう。そのような生活を健康的で望ましいと考えるかどうかは、個人の自由です。月給が7万円になれば、浮浪者のような生活からは抜け出せるでしょう。14万円あれば、人並みの生活ができるでしょう。さらに分不相応な月給を得ているなら、それは身の破滅を招くでしょう(高すぎるHbも同じです)。

 

 これらの情報は,事故や手術に際して大量に失血した場合,その人に何もする必要がないことを意味するものではありません。もし急速かつ大量に失血するなら,人の血圧は低下し,ショック状態に陥るかもしれません。まず第一に必要なのは,出血を止め,当人の組織の液体の量を元通りにすることです。この方法により,ショックを防ぎ,残っている赤血球や他の成分を循環させることができます。
 増量は全血や血漿を用いなくても行なうことができます。様々な無血性溶液が効果的な増量剤になります。最も簡単なのは食塩水で,費用も安くすみ,人間の血液と適合します。デキストランやヘマセル,そして乳酸ナトリウム加リンゲル液など,特殊な物質を含んだ溶液もあります。ヘタスターチ(HES)は新種の増量剤ですが,「血液製剤に異議を唱えるやけどの患者に,心配なく推薦できる」とされています。(「やけどの手当てとリハビリテーション」誌,1989年1-2月号)こうした溶液には明確な利点があります。「[普通の食塩水や乳酸ナトリウム加リンゲル液のような]結晶溶液,デキストラン,HESは比較的毒性がなく,安価で入手しやすい。また室温で保存でき,適合検査の必要もなく,輸血によって伝染する病気の危険もない」―「輸血療法―医師ハンドブック」,1989年。

 全て事実ですし、出血性ショックに専門的知識を持つ医師であれば、みな知っている基本的なことです。隠すつもりもありません。デキストランやヘマセル、ヘタスターチ(日本ではヘスパンダー;HES)は、大量(1000ml以上)に使用すると腎毒性や出血傾向が出現します。少量でもアレルギー反応によるアナフィラキシー・ショックを来す場合があります。確かに、安価で優れた医薬品ですが、輸血と同様に「絶対安全」なものではありませんし、「完全に」輸血の代わりになるものでもありません。

 

 しかし,『体全体に酸素を行き渡らせるのに赤血球が必要なのに,無血性の増量剤が効果を発揮するのはなぜか』と尋ねる人がいるかもしれません。前に述べたように,人には酸素運搬能があります。もしあなたが失血するなら,すばらしい補充システムが作動するのです。心臓は拍動のたびに,より多くの血液を送り出します。適切な溶液によって失血の補充が行なわれるので,希釈された血液が毛細血管の中でも流れやすくなります。化学変化が生じる結果,様々な組織に,より多くの酸素が放出されます。この適応が非常な効果を発揮するので,残っている赤血球がたとえ半分だとしても,酸素の運搬は通常の約75%まで行なわれるようです。安静にしている患者は,活用できる体内の酸素のうち,わずか25%しか用いていません。さらに,全身麻酔をすると,大抵の場合,体に必要な酸素の量は減少します。

非常に正確な表現です。よく調べてあります。医師を含む全ての人が「不必要な輸血はしてはいけない」と考えております。これらの事実は「相対的輸血拒否」の根拠ではありますが、「絶対的輸血拒否」の根拠にはなり得ません。繰り返しになりますが、宗教観や信念に基づき「死んでもいいから輸血しないで下さい」という態度を、絶対的輸血拒否。輸血合併症に対する心配や医療に対する不信感から「本当に死にそうな時以外は輸血しないで下さい」という態度を、相対的輸血拒否と言います。両者は似ているようで、「命の尊さに対する考え」が、全く異なります。「エホバの証人」以外には、「死んでもいいから輸血しないで下さい」という人は私の知る限り、日本にはおりません。

 


 「医師はどのように助けになれるか」
 熟練した医師たちは,失血のために赤血球の減少した人を助けることができます。循環量が一度回復されたなら,医師は高濃度の酸素を投与できます。これにより体は酸素を一層活用できるようになり,多くの場合,注目すべき結果が生じます。英国の医師たちはこの方法をある婦人に用いました。その婦人の失血はひどく,「ヘモグロビンの量が100cc中1.8mgまで落ちて」いました。「この婦人の治療には,……高濃度の酸素と大量のゼラチン溶液[ヘマセル]を輸液する方法を用い,成功した」。(「麻酔」,1987年1月号)報告によれば,急激な失血のあった他の人々の場合にも,高圧酸素室での治療が成功を収めています。

 高濃度酸素や高圧酸素室には、使用できる時間に限りがあります。酸素中毒といわれる状態は、1気圧下の100%酸素吸入では4時間くらいで出現してきます。4気圧下100%高圧酸素は1時間しか許容できません。「報告によれば,急激な失血のあった他の人々の場合にも,高圧酸素室での治療が成功を収めています」そのような報告があるのなら是非紹介していただきたい。重篤な出血性ショックでありながら、何日も高圧酸素室で過ごして、大きな障害もなく退院したなどという症例報告があるのなら、是非拝見したいものです。
 人間の体力や耐久力には個人差があり、急性出血時早期のHbやHt値は、出血量に比例相関しないことも良く知られた事実です。Hbで言えば、1.8で助かる人もいれば、4でも助からない人もいるのです。出血性ショックの重症度はHbの値にとらわれる事無く、総合的な臨床症状(血圧、脈拍、体温、尿量など)から判断しなければなりません。
 人が「どこまで無輸血で、急性出血に耐えられるか」は、医師にとって興味ある問題ですが、少なくとも体内の全血液が失われたら死亡してしまうことは間違いありません。健康な成人の血液量は体重の約7%と考えられています。体重が60kgなら約4000ccです。最近の研究では、健康成人ではこの30%(すなわち1200cc)までの出血なら無輸血に耐えられると考えられています。
どこまでなら無輸血で耐えられるかを研究することは臨床医の仕事ではありませんし、目の前の患者さんでそれを試すことは許されません。
 断言できるのは4000ccの出血に耐えられないことは明らかだということです。私の勤務する病院(病床数約200、年間手術総数約600件)で、過去1年間に4000cc以上の出血があった症例は8件(死亡2件)です。この方達に無輸血の方針を貫いていれば、6名の死者が増加していたことは間違いありません。これに対し、私が医師になってから今までに、輸血が原因で死亡した患者さんは1人もおりませんし、おそらくこれからも経験しないでしょう。輸血死亡率の「16万分の1」というのはそういう数字です。16万人というのは1人の医師が、一生かかっても「こなせる」人数ではありません。
必要なときは、躊躇なく輸血するということは「安全な医療」のために、絶対に必要なことなのです。

 

医師たちは患者の赤血球が多く形成されるように助けることもできます。どのようにするのでしょうか。鉄分を含んだ製剤を(筋肉や静脈の中に)投与するのです。その製剤は,体が普通の3ないし4倍の速さで赤血球を形成するのを助けます。最近はもう一つの助けが活用できるようになりました。あなたの腎臓は,骨髄が赤血球を造るよう刺激するエリスロポエチン(EPO)と呼ばれるホルモンを分泌しています。今では,合成した(遺伝子組み換えによる)EPOを用いることができます。医師たちはこれを貧血症の患者に投与し,極めて短い時間内に補充用の赤血球を形成するよう助けることができます。

 鉄剤やエリスロポエチン(EPO)が効果をあらわすには2〜4週間必要です。これを、「極めて短い時間内」というかどうかは、感じ方の問題ですが、周知の事実なのですから何故はっきり書かないのでしょう?交通事故などの緊急事態では、とても間に合うはずがありません。
 エリスロポエチンには血圧上昇という副作用があり、このため脳出血を起こしたという
報告(http://www.umin.ac.jp/fukusayou/ADR112C.htmを参照して下さい)があります。ショックの報告(医薬品副作用情報 No.130−2.エポエチンアルファ、エポエチンベータとショック)もあります。エリスロポエチンは高価かつ貴重な医薬品であり、慢性腎不全による貧血や貯留式自己血輸血以外での使用には保険適応がありません(自費扱いです)。

 

「酸素を組織に送り込むこと,傷の治癒,血液の“栄養学的な価値”に関する古い考え方は廃れつつある。エホバの証人の患者に関連した経験は,重症の貧血が十分に耐えられるものであることを実証している」―「胸部手術紀要」,1989年3月号。
 手術の最中でも,熟練した良心的な外科医や麻酔科医たちは,血液を保存するための進んだ方法を取り入れることによって助けになれます。出血を最小限に抑える電気メスなど,手術に関する細かい技術は,いくら強調しても強調しすぎることはありません。時には,傷口に流れ込む血液を吸引して濾過し,循環系に戻すこともできるでしょう。

「傷口に流れ込む血液を吸引して濾過し,循環系に戻すこともできる」という部分は「回収式自己血輸血(セルセーバー)」のことでしょうが、手術中に出血した血液が「傷口に流れ込む」ことは99.9%あり得ません。静脈圧は普通0より大きな数値ですから、これは低い所から高い所に水が流れることを意味します。よほど特殊な状況以外ではあり得ないことです。「エホバの証人」の方にはショッキングな事実でしょうが、これは「回収式自己血輸血(セルセーバー)」の使用を認めるために協会が考え出した方便(トリック)です。

 

 無血性溶液を点滴され,心肺装置につながれた患者は,その結果生じる血液希釈から益を受けるかもしれません。その場合に失われる赤血球は少なくなります。
 さらに,助けになる別の方法があります。例えば,手術中の患者が必要とする酸素量を減らすために患者の体を冷やすこと,低血圧麻酔法,凝固を促進させる方法,出血時間を短縮するためのデスモプレシン(DDAVP),レーザー“メス”などがそれです。医師と,不安を感じる患者が輸血を避ける方法を探求するにつれ,このリストは長くなることでしょう。わたしたちは皆さんが大量の失血をしないよう願っています。しかしもしそうなったとしても,熟練した医師が,非常に多くの危険が伴う輸血をせずに,あなたの治療に当たってくださるでしょう。

 もちろん、できる限りの努力をいたしますが、限界もあります。人の身体には体重の約7%の血液が存在します。60kgの健康成人では約4000ccになります。その10%(400cc)までの出血は輸血の必要はありません(若い健康成人での話です)。10〜30%の出血は相対的輸血適応と呼ばれ、個々の症例で考慮されます。30%(1200cc)以上の出血は絶対的輸血適応と呼ばれ、輸血しないと腎不全や心不全などの危険が大きくなります(絶対死ぬわけではありません)。
 どんなに熟練した医師が治療に当たっても、血液が100%失われれば死んでしまうことは明らかです。30%から100%の間のどこかに「輸血しなければ死んでしまう」値があることは間違いありません。
ある種の外傷事故や緊急事態、大手術では、4000ccどころか10000cc以上の出血があることも稀ではありません。このような場合にも輸血しないのは「自殺行為」でしかありません。
 低体温麻酔、低血圧麻酔、凝固促進、デスモプレシン(下記参照)にも多くの副作用と限界があります。また、医学的に正当な適応からはずれた乱用はむしろ有害でしかありません。
 デスモプレシン(バゾプレシン)は抗利尿ホルモンです。血管収縮作用があるので食道静脈瘤の破裂による消化管出血などに使用されることもありますが、効果が不確実なので、最近は内視鏡的止血術にとって代わられつつある「古典的な」治療法です。
 低体温麻酔が心臓手術以外でも広く利用され、かつ、出血量の削減に有効であるという報告が存在するのなら是非紹介していただきたいです。少なくとも先進国で一般的に広く認められた意見ではありません(注を参照)。「手術中の患者が必要とする酸素量を減らすために患者の体を冷やす」ことに、格段の利点があるとは思えません。手術が終われば復温しなければならないからです。また、低体温自体にも多くの欠点(不整脈、免疫抑制、循環障害など)があります。
 凝固を促進させる方法(止血剤のことでしょう)というのは、血栓症や薬物ショックの危険がありますから諸刃の刃です。それ以前に、外科的出血(血管損傷による出血)は、外科的に止血しなければ止血はできません。そのような場合に、止血剤を乱用することは無意味であり、かつ、有害ですらあります。
 レーザーメスが普及し、全ての外科医がその使用に熟練するまでには、まだまだ多くのハードルを越えなければなりません。レーザーメスの使用に消極的な医療機関が殆どである現状を考慮せず、その欠点(高価、熟練しなければむしろ危険、医療従事者の目に有害など)を無視して、利点のみ強調するのは愚かです。

 このように、無輸血手術には多くの医療従事者の苦労と少なからぬ経費と、場合によっては輸血以上の危険が伴うことをご理解下さい。無輸血手術は輸血手術に比べると死亡率が1%上昇すると言われています。別の表現をすると「無輸血手術を強行すると100人に1人は死亡する」ということです。輸血死亡率(1/160,000)と比べてみて下さい。

注)「希釈式自己血輸血、低体温、低血圧麻酔で術中管理を行った『エホバの証人』の1例」と題する報告がありますが、この中でも「酸素消費量を減少させる目的で患者体温を軽度の低体温に保った」とあります。手術後は体温を元に戻す(復温する)必要がありますから、「低体温麻酔の利点は手術中に限られる」ということは明らかです。

参考文献)
医薬品副作用情報 No.125−3.バソプレシンと横紋筋融解症(厚生省薬務局)
Pierce,S.T.,et al.:American Journal of Gastroenterology,88:424(1993)
希釈式自己血輸血、低体温、低血圧麻酔で術中管理を行った「エホバの証人」の1例.安部俊吾ほか.「臨床麻酔」22(2):p235〜.1998

 


「手術には同意しますが,輸血はしないでください」

 今日,多くの人は輸血を受け入れません。彼らは,エホバの証人が主として宗教上の理由で求める事柄,つまり無血性の代替処置を取り入れた良質の医療を,健康上の理由で求めています。これまで述べてきたように,それでも大手術は可能です。もしあなたに何らかの疑いが残っているなら,医学文献にある他の幾つかの証拠を見て,その疑いを晴らすことができるかもしれません。

 「エホバの証人」以外には、「死んでもいいから輸血しないで下さい」という人は私の知る限り、日本にはおりません。「死んでもいいから輸血しないで下さい」という態度を、絶対的輸血拒否。「本当に死にそうな時以外は輸血しないで下さい」という態度を、相対的輸血拒否と言います。両者は似ているようで、「命の尊さに対する考え」が、全く異なります。

 

幼い子供たちもでしょうか。「外科的には複雑であったが,無輸血の技術を用いて,48回にわたる小児の直視下心臓内手術が行なわれた」。子供たちは体重が4.7kgほどしかありませんでした。「エホバの証人の手術が一貫して成功し,輸血には重大な合併症の危険があるため,我々は現在,小児の心臓手術の大部分を無輸血で行なっている」―「循環」,1984年9月号。

「エホバの証人」が「回収式自己血輸血(セルセーバー)」を受け入れて下さったおかげです。感謝します。次は、是非「貯血式自己血輸血」を認めていただきたいと願います。

 

 「エホバの証人の,主要な四か所の関節置換」という論文(「整形外科レビュー」誌,1986年8月号)は,「膝と股関節が甚だしく破壊された」貧血症の患者について述べています。計画された手術の前後に鉄デキストランが用いられ,成功を見ました。
 「英国麻酔ジャーナル」誌(1982年)は,ヘモグロビン量が10を下回る52歳の証人について伝えています。失血を最小限に抑えるために低血圧麻酔法を用い,この婦人に股関節と肩関節の全置換術が施されました。アーカンソー大学(米国)の外科医の一チームもこの方法を用い,証人たちの股関節置換術を100回行ないましたが,その患者すべてが回復しました。このチームの指導に当たった教授は,「我々はそれらの(エホバの証人の)患者から学んだ事柄を,股関節全置換の患者に適用している」と述べています。
 ある証人たちの良心は,血を用いずに行なわれる臓器移植は受け入れます。13件の腎臓移植に関するある報告は,「全般的な結論からすると,エホバの証人の大半に対して,腎臓移植を安全かつ効果的に行なうことができる」と結んでいます。(「移植」,1988年6月号)同様に,血を拒むことが心臓移植の成功を阻むこともありませんでした。

 腎移植手術で輸血が必要になることは、「エホバの証人」の手術以外でも稀なことです。心臓移植は日本では行われておりませんから、確実なことは申せませんが、回収式自己血輸血(セルセーバー)を使用すれば、多くの症例が無輸血で可能でしょう。すべて「絶対的無輸血」が安全であるという根拠になるものではありません。

 

 『他の種類の無輸血手術についてはどうか』と尋ねる方がいるかもしれません。メディカル・ホットライン誌(1983年,4-5月号)は「[米国ウェイン州立大学で]産婦人科の大手術を無輸血で受けたエホバの証人」に関する手術について伝えています。その会報は,「同様の手術の際に輸血を受けた女性たちの場合よりも,死亡や合併症の数が多いということはなかった」と伝え,次いでこう注解しました。「この研究結果は,産婦人科の手術を受けるすべての婦人に血を用いることについて見直しをすべき,正当な理由となるかもしれない」。
 ゲッティンゲン大学(ドイツ)の病院で,輸血を拒んだ30人の患者に一般的な手術が施されました。「輸血を受ける患者にも起きないような合併症は,彼らには起きなかった。……輸血はできないという意見に騒ぎすぎてはならない。またそのために,必要かつ外科的に正当化される手術を控えるべきでもない」―「リシコ・イン・デア・ヒルルギー」,1987年。
 多くの大人や子供に対して血を用いない脳手術さえ行なわれています。例えば,ニューヨーク大学メディカルセンターがその一例です。1989年に神経外科の権威であるジョセフ・ランソホッフ博士はこう書きました。「ごく明白な事実だが,血液製剤の使用を容認しない宗教信条を有する患者に関しては,大抵の場合,危険を最小限に抑えて,その使用を避けることができる。手早く,また比較的短い時間で手術を行なえる場合には特にそうである。大変興味深いことに,患者が退院の時期になって,自分の宗教信条を尊重してもらえたことを感謝するまで,私は当人がエホバの証人であることを忘れている場合が多い」。

赤字で表現した部分、「かもしれない」「騒ぎすぎてはならない」「大抵の場合」「場合が多い」などの表現に注意して下さい。これらの意見は「相対的無輸血」を支持する意見ではありますが、「絶対的無輸血」を支持する意見ではないのです。

 

 最後に,血を用いない複雑な心臓手術や血管手術は,大人に対しても子供に対しても行なえるのでしょうか。デントン・A・クーリー博士はまさにそうした手術の草分け的存在でした。27ページから29ページにある 付録の,転載された医学記事から分かるように,クーリー博士は初期の分析に基づいて,「エホバの証人グループの患者の受けた手術の危険度は,事実上他の人々の場合よりも高くなかった」と結論しています。その種の手術を1,106回行なった後,同博士は,「どんな場合であっても,私と患者との[血を用いないことを約束した]合意事項,つまり契約は守られる」と書いています。
 外科医たちは,エホバの証人に関するもう一つの要素として,良い態度を観察してきました。1989年10月にクーリー博士は,「それらの患者の態度は模範的だった」と書きました。「彼らには,大抵の患者が抱いているような,合併症,それに死をさえ恐れる気持ちがない。自分たちの信条と自分たちの神に対して,深くかつ持続的な信仰を抱いているのである」。
 これは,彼らが死ぬ権利を主張しているという意味ではありません。彼らはよくなることを願うので,良質の医療を積極的に求めます。また,血に関する神の律法に従うことが賢明であることを確信しています。この見方が無輸血手術に良い影響力を及ぼしているのです。
 フライブルク大学(ドイツ)にある外科病院の教授,V・シュローサー博士はこう述べました。「この患者のグループの場合,手術中の出血の割合は他のグループと比べて高くない。合併症がもし起こったとしても,その割合は他のグループよりも低い。エホバの証人に典型的な,病気に対する特別な見方は,手術中の過程に良い影響力を与えた」―「ヘルツ・クライスラオフ」,1987年8月号。
 証人たちは,全血,赤血球,白血球,血小板,血漿の輸血を受け入れません。免疫グロブリンのような小分画に関しては,「ものみの塔」誌,1990年6月1日号,30,31ページをご覧ください。
 「ものみの塔」誌,1989年3月1日号,30,31ページでは,血液回収法と(体外の)血液循環装置に関する聖書の原則が考慮されています。

「エホバの証人」と医療従事者は、お互いに尊敬し合い、協力し合うべきであることは、言うまでもありません。全ての人が、お互いに尊敬し合わねばならないのと、同じです。
クーリー博士の文献は拝見しておりませんので簡単には信じられませんが、もし本当に「
どんな場合であっても,私と患者との血を用いないことを約束した合意事項,つまり契約は守られる」という表現がされているのでしたら、博士の見解および態度は間違っていると思います。「輸血しなければ確実に死亡する状況でも、輸血しない」というのは、人体実験のために良心を捨てた医師の態度です。

 


「あなたには選択の権利がある」

 現在の医療の方法(「危険性-受益性の分析」と呼ばれる)により,医師と患者の双方にとって,血液療法を避ける面で協力することが容易になっています。医師たちは特定の薬や手術の危険,また生じ得る益などの諸要素を比較考量します。患者もそのような分析に参加することができます。

 多くの場所の人々が自分と関係づけて考えることのできる一つの例を用いることにしましょう。それは慢性的な扁桃腺炎です。もしあなたがこの問題を経験するなら,医師のところに行くでしょう。実際には,二人の医師に診断してもらうかもしれません。健康問題の専門家は,別の医師に診断してもらうよう勧めることが多いからです。ある医師は手術を勧めるかもしれません。そして手術を受けるとはどういうことか,そのあらましを説明します。入院期間はどれくらいで痛みはどれほどか,また費用はどれくらいかかるかといった事柄です。危険に関しては,ひどく出血することは珍しく,そうした手術で死亡する人は非常に少ないと言います。しかし別の医師は,抗生物質を投与する治療法を試してみるよう勧めます。そして薬の種類,成功の可能性,費用などについて説明します。危険に関しては,薬物反応によって命が危うくなった患者はごく少ないと語ります。

 有能な医師なら,きっと様々な危険と益について考慮するでしょう。しかし,次に,様々な危険と生じ得る益について,またあなたが一番よく知っている他の要素について比較考量しなければならないのは,あなたです。(あなたの感情的強さや霊的強さ,家族の収入,家族に対する影響,あなた自身の倫理観といった面を考慮する上で最善の立場にいるのは,あなたです。)それから選択を行ないます。恐らくあなたは,一つの療法に対して,インフォームド・コンセント(十分情報を与えられた上での同意)を表明するでしょうが,他方は拒否するでしょう。

 あなたのお子さんが慢性の扁桃腺炎になったとしたら,同じことが当てはまるでしょう。様々な危険と益,また幾つかの療法のあらましが,愛ある親であるあなたに説明されるでしょう。親は最も直接的な影響を受けるだけでなく,生ずる結果に対処する責任を担うことになるのです。すべての面を考慮した後,あなたはお子さんの健康と,ひいてはお子さんの命に関係した問題に関して,インフォームド・チョイス(十分情報を与えられた上での選択)を行なうことができます。あなたは,それなりの危険が伴う手術に同意するかもしれません。他の患者は,それなりの危険が伴う抗生物質を投与する治療法を選択するかもしれません。医師たちの助言が異なるように,患者や親も自分が最善と思う事柄に関しては意見が異なります。(危険性-受益性の問題を考慮した)インフォームド・チョイスを行なう際にこうしたことが生じるのは,理解できることです。

インフォームド・コンセントとセカンド・オピニオン(複数の医師の助言)は、確かに重要です。お子さんの場合も同じです。ところで、あなたは「絶対必要な場合でも輸血をしない方がよい」という医師にあったことがありますか?私はありません。「エホバの証人」の医師(皆無に近いですが)でさえ、患者さんが「エホバの証人」でなければ輸血をするそうです。これは何を意味しているのでしょうか?複数の医師(事実上、全ての医師)が勧めている治療法を拒否する行為がインフォームド・コンセントやセカンド・オピニオンを尊重していると言えるのですか?あなた方「エホバの証人」の行為は医師を脅迫して、ギリギリの譲歩を迫っているに過ぎません。

 

「現在の医療費は増加しているが,その主要な原因となっているのは,医療技術の乱用である。……輸血はその経費と高い危険性とによって,とりわけ重大なものである。したがって,アメリカ病院認定合同委員会は,輸血を『量も危険も多く,誤りが生じやすい』ものとしている」―「輸血」,1989年7-8月号。
 血液の使用に関してはどうでしょうか。様々な事実を客観的に調べる人なら,輸血に大きな危険が伴うことを否定できません。マサチューセッツ総合大病院の輸血サービス部長であるチャールズ・ハギンズ博士は,その点を非常にはっきりと示しました。「血液が今ほど安全なことは決してなかった。しかし避け難い結論として,血液は安全ではないと考えなければならない。血液は我々が医療で用いる物質の中で,最も危険なものである」―ザ・ボストン・グローブ・マガジン誌,1990年2月4日号。
 医療関係者に次のような助言が与えられてきたことには正当な理由があるのです。「輸血をめぐる益と危険の関係の危険の部分をも再評価すること,そして代替療法を探すことが必要である」―「術中の赤血球輸血」,米国立衛生研究所会議,1988年6月27-29日。
 血液を使用する際の様々な益や危険に関して,医師たちの意見は一致していないかもしれません。ある医師は何度も輸血をし,輸血には危険を冒すだけの価値があると確信しているかもしれません。別の医師は無輸血の処置法で良い結果を得ているので,輸血に伴う危険は正当化できないと考えるかもしれません。しかし最終的には,患者もしくは親であるあなたが決定しなければなりません。なぜでしょうか。そこには,あなた(あるいはお子さん)の体,命,倫理観,そして神との極めて重要な関係がかかわっているからです。

 すべてエイズ大国である米国での意見ですが、「神との極めて重要な関係がかかわっている」という部分を除けば、基本的には正論であり否定する必要はありません。アメリカ病院認定合同委員会が『量も危険も多く,誤りが生じやすい』ものとしたのは、複数の医療技術であり、これは医療技術の侵襲度を比較検討するための研究です。「輸血には価値がない」と主張しているのではありません。それでも輸血が絶対必要な場合はあるのです。

 


「法律上の心配を除き去る」

 『ある医師や病院が,輸血の法廷命令をすぐに取りつけるのはどうしてか』と考える方がいるかもしれません。幾つかの場所で,共通して見られる理由の一つは,責任を負わされるのではないかという恐れです。

 エホバの証人が無輸血の処置を選択する時には,そのような心配をすべき理由はありません。アルバート・アインシュタイン医科大学(米国)のある医師はこう書いています。「大半の[証人たちは],医師と病院の責任を免除する,アメリカ医師会の用紙に快く署名する。また『医療上のお願い』[のカード]を携帯している人も多い。正しく署名と日付が付された“血液製剤拒否”の用紙は,契約上の合意であり,法的な拘束力を持つ」―「麻酔ニューズ」誌,1989年10月号。

 そうです,エホバの証人は協調性を示し,求められた無輸血療法を提供した責任は医師や病院に負わせないという法的な保証を与えているのです。医療専門家たちが勧めているように,エホバの証人は各自医療カードを携帯しています。このカードは年に一度更新され,本人と複数の証人―最近親者である場合が多い―の署名が付されます。

 1990年3月に,カナダのオンタリオ州 の最高裁判所は,そのような書類に関して,次のような好意的な見解を表明した判決を支持しました。「このカードは,その携帯者が医師との契約に書面による制限を課す際,合法的に取ることができる正当な立場を示す,書面による宣言である」。ダニエル・アンダーソン教授は「メディシンスク・エティク」(1985年)の中でこう書きました。「もし,自分はエホバの証人で,どんな状況のもとでも輸血は望まないという主旨の,書面による患者の明確な申し立てがあるなら,患者の自主性を尊重する立場からすると,その申し立てが口頭によって行なわれたかのように,その願いを尊重しなければならない」。

 エホバの証人は,承諾を求める病院側の用紙にも署名します。ドイツのフライブルクで用いられた用紙には,医師が治療に関して患者に与えた情報を記せる余白があります。そして医師と患者の署名の上部には,こう付記されています。「私はエホバの証人の宗教団体の一員として,手術の際に他の人の血液や血液成分を用いることを絶対に拒否します。そのため,計画され必要とされた方法には,出血に関連した合併症ゆえに大きな危険が伴うことは承知しています。私は,とりわけその点に関する十分な説明を聞いた後,他の人の血液や血液成分を用いない,必要とされる手術が行なわれることを希望します」―「ヘルツ・クライスラオフ」,1987年8月号。

 実際のところ,無輸血の処置のほうが危険性は低いかもしれません。しかしここで大切な点は,エホバの証人の患者は,医療関係者が行なうよう委ねられている事柄を行なう面で前進し,人々の回復を助けることができるよう,不必要などんな心配をも喜んで除き去りたいと思っていることです。アーンゲロース・A・カンボーリス博士が「エホバの証人の腹部大手術」の中で述べているように,この協力の精神はすべての人に益を与えます。

 「外科医は手術前に得られた合意事項を拘束力のあるものとみなし,手術中また手術後にどのような事態が進展しようと,その合意事項を固守しなければならない。[これ]によって,患者は手術処置に対して積極的な気構えを持つようになり,外科医の注意は法的かつ哲学的な考えから外科的かつ技術的な考えに振り向けられ,そのために外科医は最良の手術を行ない,患者の最善の益を図ることができる」―「アメリカの外科医」,1987年6月号。

 すべてアメリカでの話ですが、間違ったことは書かれておりません。ただ、医師が最も恐れるのは「助ける方法がある患者さんが、自分の目の前で亡くなること」です。医師とはそういうものです。患者の命より、自己保身を優先する人物が医師として尊敬されるはずがありません。法律の問題ではありません。医師の良心の問題です。

 


「あなたの権利は認められる」

 今日多くの場所において,患者は自分がどんな治療を受けるかを決定する侵し難い権利を有しています。「インフォームド・コンセントに関する法律は,二つの前提に基づいている。第一に,患者は推薦される治療法について,インフォームド・チョイスを行なうための,十分な情報を得る権利を有している。第二に,患者は医師の推薦を受け入れるか拒否するかを選択できる。……患者にはノーもイエスも,さらには条件付きのイエスさえ言う権利があるとみなされていないなら,インフォームド・コンセントの論理的根拠の多くは消失してしまう」―「インフォームド・コンセント―法理論と臨床的慣行」,1987年。

 米国:「患者の承諾を得る必要性を強調することは,自分自身の運命に関する決定は関係する本人が下すべきであるという,個人の自主性に関する倫理的な概念である。承諾を要求する法的な理由は,患者の承諾なくしてなされる医療行為は暴行に相当するということである」―「輸血に関するインフォームド・コンセント」,1989年。

 ドイツ:「患者の自己決定権は,援助を与え命を保護するという原則に勝るものである。そうであれば,患者の意志に反して輸血は施すべきではない」―「ヘルツ・クライスラオフ」,1987年8月号。

 日本:「医療の世界に“絶対”はない。医師は現代医学が作る筋道を最良と信じて,これに沿って進むが,そのすべてを“絶対”として患者に強いるべきではなく,患者に選択の自由が残されねばならない」―1985年6月28日付,南日本新聞。

 残念ながら、医療の世界にも極少数の“絶対”はあります。その1例が「輸血をしなければ、絶対に助からない患者さんがいる」という事実です。「“絶対”はない」という規則すら、“絶対”ではない、というのは皮肉な話ではありますが真実です。

 患者の中には,自分たちの権利を行使しようとして抵抗に遭った人たちがいます。それは,扁桃腺切除や抗生物質について強い感情を抱く友人からの抵抗だったかもしれません。あるいは,医師は自分の助言の正しさに確信を抱いてきたかもしれません。病院の職員は,法律的もしくは経済的な関心に基づいて,異議を唱えることさえしたかもしれません。

 「多くの整形外科医は[証人]の患者に手術をしないほうを選ぶ」と,カール・L・ネルソン博士は述べています。「患者はどんなタイプの医療であれ,それを拒否する権利を有しているというのが我々の信念である。輸血のような特定の治療法を排除し,なおかつ安全に手術を行なうことが技術的に可能であれば,その方法は一つの選択肢として存在して然るべきである」―「骨・関節手術ジャーナル」誌,1986年3月号。

 理解のある患者は,医師にとって得意ではない療法を用いるよう医師に圧力をかけることはありません。とはいえ,ネルソン博士が述べたように,献身的な多くの医師は患者の信念に自分を合わせることができます。ドイツのある政府関係者はこのような助言を与えました。「医師は……自分はエホバの証人に対してすべての代替療法を施せるわけではないと考え,援助を拒んではならない。自分に採用できる手段が減少した場合でも,医師には依然として援助を与える義務がある」。(「デア・フラオエンナルツ」,1983年5-6月号)同様に,病院が存在するのは,単に金儲けをするためではなく,差別なくすべての人に奉仕するためです。カトリックの神学者リチャード・J・ディバインは次のように述べています。「病院は患者の命と健康を保護するため,医学上のあらゆる努力を払うべきだが,医療が決して[彼の]良心を侵すことがないようにすべきである。さらに,輸血を強制する法廷命令を得るために,甘言をもって患者を説得するような無理強いは,どんな形態のものも避けるべきである」―「健康の増進」,1989年6月号。

相対的無輸血や信教の自由を尊重しようという医師の善意は貴重なものです。絶対的無輸血の正当性を証明するものではありません。

 


「法廷に持ち出すのを避ける」

 個人の医療に関する問題は法廷に持ち出すべきでないことに多くの人は同意します。あなたが抗生物質を投与する治療法を選択したとして,だれか別の人があなたに扁桃腺切除を強要するために法廷に問題を持ち出したら,あなたはどう感じるでしょうか。医師は自分が最善と思う医療を提供したいと考えるかもしれませんが,あなたの基本的人権を踏みにじることを法的に正当化するよう求める責任は課されていません。また聖書は,血を避けることを淫行を避けることと同列に置いているので,クリスチャンに血を強制するのは,強制的な性行為,つまり強姦に等しい行為です。―使徒 15:28,29。

 強制的な淫行=強制的な性行為なのでしょうか?奇妙な論理です。淫行は「自ら進んで」行うからこそ「淫行」なのではありませんか?強制的な淫行というものは、有り得ません。この理論は、強姦された女性を「淫らな行いをした」と責めていることになります。そのような無神経かつ無責任な屁理屈を使うことは恥じるべきです。
 上の文章は
「クリスチャンに血を強制するのは,強制的な性行為,つまり強姦に等しい行為である。なぜなら聖書には、血を避けることと性行為を避けることを同列に置いて書かれているからです」と言い換えることができます。おかしくはありませんか?性行為を禁止する宗教は、「滅びゆく」宗教です。

 

 ところが,「輸血に関するインフォームド・コンセント」(1989年)は,ある患者が自分の宗教上の権利のゆえに特定の危険を進んで受け入れようとすると,ある裁判所は非常に困惑し,「輸血が行なえるようにするための,ある種の法的な例外―法律上の擬制と呼んでもよいもの―を設ける」と伝えています。彼らは,妊娠が関係しているとか,子供たちを支えなければならないとか言って,弁解を試みるかもしれません。その本は,「それは法律上の擬制である。能力のある大人には,治療を拒否する権利が与えられている」と述べています。

 「治療を拒否する権利が与えられている」のは、自由意志を持つ、責任能力と理性のある成人だからです。「末期癌などの特別な理由もないのに自殺しようとする人」が自由意志を持つ、責任能力と理性のある成人と認められるでしょうか?「ある書物に書いてあるから」(本当にイエスの言葉ですか?)と言って「死んでも輸血しないで欲しいという人」が自由意志を持つ、責任能力と理性のある成人と認められるでしょうか?

 

輸血を強く主張する人は,エホバの証人がすべての療法を拒否するわけではないという事実を無視します。証人たちは,専門家たちでさえ危険が伴うと述べる一つの療法だけを退けるのです。普通の場合,医学的な問題は様々な方法で何とか克服できるものです。ある方法にはある危険が,別の方法にはまた別の危険が伴います。温情主義的な法廷や医師は,どちらの危険が「あなたの最善の益になる」かを理解できるのでしょうか。それを判断するのは,あなたです。エホバの証人は自分たちに代わってだれかに決定してもらうことを決して望みません。それは,神のみ前における彼らの個人的な責任なのです。

  専門家たちは「危険も伴うが、益(絶対必要な場合)もある」と主張しております。特に、貯留式自己血輸血には、ほとんど危険はないと言っているのです。輸血を強く主張しているのではありませんし、エホバの証人がすべての療法を拒否するわけではないという事実を良く知っているからこそ「エホバの証人は骨髄移植を認めているのに、輸血だけは拒否するのはおかしい」と言っているのです。。
 
真に信仰に基づく輸血拒否であるのなら、「危険があるから」という理屈は必要ありません。堂々と「聖書に書いてあるから」と主張すれば良いことです。「イエス・キリストはそんなこと言っていません」と言われたら、「新しい宗教です」と主張するべきです。なぜ、聖書やキリストの権威にすがるのですか?

 

もし法廷があなたに嫌悪すべき治療法を強制するとしたら,それはあなたの良心と,あなたの生きる意志という極めて重要な要素にどんな影響を与えると考えられますか。コンラート・ドレビンガー博士はこう書きました。「それは確かに誤った形態の医学的野心であろう。この野心が,患者の良心を抑えつけて,特定の療法を無理強いすることになる。その療法は,身体的な治療は行なうものの,精神的には致命的な一撃を加えるためのものである」―「デア・プラクティッシェ・アルツ」,1978年7月号。

誤った形態の医学的野心である「それ」が何を指すものか書かれておりません。

 


「子供たちのための愛に富む世話」

 血に関する裁判にはおもに子供たちが関係しています。愛に富む親が無輸血の処置を敬意をもって依頼した時,ある医療関係者は時おり輸血のための法廷の支持を求めました。もちろん,クリスチャンは子供の虐待や放置を防ぐための法律や法廷行動に同意します。恐らくあなたは,ある親が子供を残虐に扱ったり,子供に医療を全く受けさせなかったりした例について読んだことがあるでしょう。なんと悲惨なことでしょう。放置された子供を保護するために国が手を打つことができ,また手を打つべきなのは明らかです。それでも,子供を気遣う親が良質の無輸血療法を願い求める時,それとは全く状況が異なることは容易に理解できます。

 普通それらの裁判では,病院内の子供に焦点が当てられます。子供はどのように,またなぜ病院に連れて来られたのでしょうか。心配する親たちが良質の世話を受けさせるために子供を連れて来たという場合がほとんどです。ちょうどイエスが子供たちに関心を示されたように,クリスチャンである親も子供たちのことを気遣います。聖書は『自分の子供を慈しみ,乳をふくませる母親』について述べています。エホバの証人は自分の子供たちに対してそれほど深い愛を抱いているのです。―テサロニケ第一 2:7。マタイ 7:11; 19:13-15。

 「私は[エホバの証人の]家族が親密に結び合わされ,愛に富んでいることに気づいた」とロレンス・S・フランケル博士は伝えています。「子供たちはよくしつけられ,気遣いを示し,礼儀正しい。……医学上の指示にしっかり従う態度も見られるように思う。そのような態度は,彼らの信念の許す限りにおいて医学上の介入を受け入れる気持ちを実証しようとする努力の表われかもしれない」―「小児科」,米国ヒューストン,医学博士アンダーソン病院および腫瘍協会,1985年。

 当然のことながら,親であれば,家の暖房には家族としてガスを使うか灯油を使うか,子供を遠距離のドライブに連れてゆくか,子供を水泳に行かせるかといった,自分の子供の安全と命に影響を与える決定をするでしょう。これらの事柄には危険が伴います。生死の関係した危険さえあります。しかし親の決定権が社会的に認められているので,親は子供に影響を与えるほとんどすべての決定において,大きな発言力を与えられています。

 「ほとんどすべての」を強調しておきます。また、与えられているのは「発言力」であって「強制力」や「決定権」ではありません。子供は親の所有物ではありません。義務教育や子供の扶養義務は、義務であって「親の権利」ではありません。そこを勘違いしてはいけません。あなたには自分の子供を「殺す(見殺しにする)」権利は与えられていないのです。これは医師に患者を治療する義務(権利ではありません)があるだけであり、自分の患者を「殺す(見殺しにする)」権利があるわけではないのと同じです。

 

1979年に米国最高裁判所は明確にこう述べました。「家族に関する法律の概念は,子供に欠けている円熟性や経験,また生活上の難しい決定を下すのに必要な判断能力を親が所有しているという仮定に基づいている。……[医学上の問題に関する]親の決定に危険が伴うというだけの理由で,決定権が自動的に,親から国家の何らかの機関や役人に移るわけではない」―パルハム 対 J.R.。

「 自動的に」を強調しておきます。

 

 その同じ年,ニューヨーク州の最高裁判所は次のような判決を下しました。「子供から適正な医療が剥奪されているか否かを判断する最も重要な要素は……周囲のすべての事情に照らして,親が子供のために,容認できる治療を受けさせてきたかどうかである。この質問は,親が“正しい”決定をしたか“間違った”決定をしたかという観点から提出することはできない。医療の実践に関する現状は,長足の進歩を遂げてはいても,ほとんどその種の明確な結論を認めるものとはならない。法廷も,親の代理者としての役割を担うことはできない」―「ホフバウエルの訴件」。

これは何も言っていないのと同じです。おそらく、ある長文の一部分でしかありません。

 

 手術か抗生物質かの選択をした親の例を思い起こしてください。どの療法にもそれなりの危険が伴うでしょう。愛に富む親は,様々な危険と益,また他の要素を比較考量して選択する責任を負っています。その点に関して,ジョン・サムエルズ博士は(「麻酔ニューズ」誌,1989年10月号),「子供たちに影響を与える,医学上の命令を出す判事への手引き」を復習することを提案しました。この手引きは次のような立場を取っています。

 愛に富む親は、自分の選択した治療によって起こる結果にも責任を持つはずです。間違った選択をした場合、しかもその間違いが致命的なものであった場合、後になって間違いに気付いてもすべては手遅れです。

 

 ジェームズ・L・フレッチャー2世博士はこう述べています。「私は,専門家としての尊大さが,健全な医学的判断に取って代わることが普通になっているのではないかと心配だ。“今日において最善”とみなされる治療法も,明日には変更されたり破棄されたりする。“宗教的な親”と,自分の治療法は絶対に不可欠であると確信している尊大な医師では,どちらが危険なのだろうか」―「小児科医」,1988年10月号。

 「医師が,担当する患者の生死を道理にかなった程度の確実さをもって予言できるほど,医学の知識は進んでいない。……方法の選択肢があるのであれば,例えば,成功率は80%だが親の同意を得られない方法を医師が推薦し,成功率が40%しかない方法に親が異議を唱えないとするなら,医師は医学的には危険でも,親が異議を唱えない道を取るべきである」。

 過去の過剰な輸血を謙虚に反省する医師の言葉です。それが「絶対的輸血拒否」の根拠となるのでしょうか?「健全な医学的判断」とは何でしょうか?この発言をした医師たちは「絶対的輸血拒否」を勧めているのでしょうか?「相対的輸血拒否」を勧めているのでしょうか?「貯血式自己血輸血」を否定しているのでしょうか?

 

 血の医学的な使用には,これまで表面化してきた多くの致死的な危険が伴うことを考えると,また効果的な代替療法があることからすると,血を避けることによって危険は少なくなるのではないでしょうか。

代替療法にも副作用や限界があることを無視しなければ、血を「全ての薬」に置き換えても成立する、立派な正論です。「絶対的無輸血」を推薦する根拠とはなりません。

 

 子供に手術が必要な場合,クリスチャンが多くの要素を比較考量するのは当然です。血を使っても使わなくても,手術には危険が付きものです。どんな外科医が太鼓判を押せるでしょうか。熟練した医師が証人たちの子供に無輸血の手術を行ない,立派な成功を収めたことを親の皆さんはご存じかもしれません。ですから,医師や病院関係者にとって別の方法が好ましく思えても,強い圧力が加えられる上に時間を浪費する法廷闘争に持ち込むより,愛に富む親と協力するほうが道理にかなっているのではないでしょうか。また親としては,そのような症例を扱った経験があり,快く扱ってくれる職員のいる別の病院に子供を移すことができます。実際,これからは無輸血の処置のほうが良質の医療になるでしょう。前に述べたように,この方法は「合法的な医学上および非医学上の目標を達成」するよう家族を助けることができるからです。

 現在「そのような症例を扱った経験がなく,快く扱ってくれる職員のいない病院」は、殆どありません。そのような病院の職員ですら、稀には「絶対に輸血しなければ助からない」こともあると主張しているのです。さらに、交通事故などの緊急事態では、転院している余裕はないことは明らかです。

 

   


「本当に命を救う血」

 これまでに挙げた情報から,幾つかの特定の点が明確にされました。輸血は命を救うと考える人は多くいますが,輸血には様々な危険が伴います。輸血の結果として毎年幾千幾万という人々が死亡し,さらに大勢の人たちが重い病気にかかり,長期的な影響を被ります。ですから,物理的な観点からしても,『血を避ける』よう勧める聖書の命令に注意を払うのは今でも知恵のあることなのです。―使徒 15:28,29。

 輸血の結果として毎年幾千幾万という人々が死亡しているというのは明らかな誤りです。直ちに訂正するか、根拠となる正式な文献を公表するべきです。輸血によって救われた(輸血なしでは助からなかった)人は、毎年幾千幾万といることは事実です。

 

 もしも患者が無輸血の医療処置を求めるなら,患者は多くの危険から保護されます。この方法をエホバの証人に適用するという挑戦を受け入れてきた熟練した医師たちは,数多くの医学リポートによって証明されているように,安全で効果的な治療の規準を開発してきました。無輸血による良質の医療を備える医師たちは,価値ある医学的原則を曲げているわけではありません。むしろ,様々な危険と益を知る患者の権利に対する敬意を示し,患者が自分の体と命に対して行なわれる事柄に関して,インフォームド・チョイス(十分情報を与えられた上での選択)を行なえるようにしているのです。

 無輸血手術にも、少なからぬ危険と労力と費用が必要であることも、知って置いて下さい。それが、真のインフォームド・コンセントです。一方的な(しかも少なからぬ誤りを含んだ)情報のみを強調することはフェアーではありません。「無輸血による良質の医療を備える医師たちは,価値ある医学的原則を曲げているわけではありません。」の無輸血とは「相対的無輸血」のことであり、「絶対的無輸血」のことではありません。「絶対的無輸血」を支持する医師は皆無だからです。

 

 わたしたちはこの問題に関して知識がないわけではありません。すべての人がこの方法に同意するわけではないことを理解しているからです。良心,倫理観,医学的な見方などは人によって異なります。したがって,一部の医師を含めある人たちは,血を避けるという患者の決定を受け入れ難く感じるかもしれません。ニューヨーク市のある外科医はこう書きました。「私が若いインターンだった15年前のことは決して忘れられない。その時私は,十二指腸潰瘍のため出血多量で死亡したエホバの証人のベッドの傍らに立っていた。患者の願いは尊重され,輸血は施されなかったが,自分が医師として感じた深い挫折感は今もって忘れられない」。

繰り返しますが、「絶対的無輸血」を許容する医師は、私の知る限り皆無です。

 

 この医師は,血が命を救うことを信じていたに違いありません。しかし同医師がこれを書いた翌年,「英国手術ジャーナル」誌(1986年10月号)は,輸血が行なわれるようになる前,胃腸からの出血による「死亡率は2.5%に過ぎなかった」ことを伝えました。輸血が習慣的になって以来,『大規模な研究の大半は,10%の死亡率を報告して』います。死亡率が4倍にもなったのはなぜですか。「早く輸血をすると,出血に対する凝固亢進作用を逆転させ,それによって再出血を促すようである」。出血性潰瘍の証人が輸血を拒んだ時,その選択によって当人が生き延びる見込みは事実上最大限に達したと言えるかもしれません。

 11年も前(エイズやC型肝炎ウイルスが発見される前)の、文献を持ち出して何を言いたいのでしょうか?もう一度、申します。「医学は日進月歩」です。現在、胃腸からの出血に輸血が必要となることは、稀であるのは事実です。稀には「絶対に輸血しなければ助からない」こともあるのも事実です。そういう事実であれば、それは確かに医師が一番良く知っている(あまり使いたくない言葉ですが)のは当然です。
 医学文献の読み方も医師にお任せ下さい。「輸血が行なわれるようになる前,胃腸からの出血による死亡率は2.5%に過ぎなかった」のは17世紀以前の歴史の研究です。胃潰瘍は今も昔も死亡率の高い病気ではありませんが、死亡率はある期間を区切って考えなければ何の意味もありません。これは冗談ですが、17世紀に胃腸から出血した人の97.5(100-2.5)%が死んでいない(今も生きている)とは驚きです。
 現在、出血性潰瘍に輸血が必要となることは稀ですから、「輸血が必要になるほど重症の消化管出血の死亡率が、10%である」のは驚くには当たりません。
統計や科学では、初期条件を一致させない限り、何の結論も出せません。具体的に申せば、「17世紀以前、胃腸からの出血による急性期死亡率は2.5%であった」、それに対し「現代では医学の進歩により、胃腸からの出血による急性期死亡はほとんど見られなくなったが、それでもなお、輸血が必要になるほど重症の消化管出血の死亡率は10%である」ということでしょう。医学文献を自分の都合の良いように勝手に解釈することは、賢明ではありません。
 「早く輸血をすると,出血に対する凝固亢進作用を逆転させ,それによって再出血を促すようである」というのは相当奇抜な理論です。「英国手術ジャーナル」誌ともあろうものがこのような奇説を掲載していたとは驚きですが、少なくとも10年以上経った現在もこの珍説は証明されておりません。このような場合、まともな医師は「輸血により血圧が上昇(あるいはショック状態から回復)するために再出血する」と考えています。

 

 この同じ外科医は続けてこう述べています。「時間が経過し,多くの患者の治療に当たっているうちに,人の見方は変化するものである。いま私は,患者と医師の間の信頼関係や,患者の願いを尊重する義務のほうが,我々の周囲の新しい医学技術よりはるかに重要なものであることに気づいている。……興味深いことに,あの挫折感は,あの特定の患者の確固たる信仰に対する畏怖の念と崇敬の念に道を譲ってしまった」。同医師は結論として,『このことは,私の気持ちや生じる結末とは関係なく,常に患者の個人的かつ宗教的な願いを尊重すべきであることを私に気づかせてくれる』と述べました。

 あなたは,「時間が経過し,多くの患者の治療に当たっているうち」に多くの医師が認識するようになる事柄をすでに理解しておられるかもしれません。非常に立派な病院で最善の医療を受けたとしても,人はいつか死ぬのです。輸血をしてもしなくても,人は死にます。わたしたちはすべて年を取り,人生の終わりに近づいてゆきます。これは運命論的な考えではありません。死は避けがたい人生の現実なのです。

 証拠が示すところによると,血に関する神の律法を軽視する人々は多くの場合即座に,もしくは後になってその害を被ります。血が原因で死ぬ人々さえいます。生き残った人々も,終わりのない命を得たわけではありません。ですから,輸血は永久に命を救うものではないのです。

 宗教的な理由と医学的な理由で,またはそのどちらかの理由で輸血を拒否し,代替療法を受け入れる人々の大部分は,非常に順調な経過をたどります。彼らはそのようにして,何年か命を延ばすことができるのです。しかし際限なく延ばせるわけではありません。

 当たり前のことです。「輸血をすることで、本来の(神から与えられた)寿命を延ばすことができる」と考えている理性ある現代人(医師を含む)は、おりません。輸血はあくまで臓器移植であり、緊急避難です。血液に「本来あり得ない、特別な意味(偶像的象徴)」を持たせているのは、医師でしょうか?「エホバの証人」でしょうか?
 「血に関する神の律法を軽視する人々は多くの場合即座に,もしくは後になってその害を被る」証拠があるとは驚きです。「神」や「悪魔」や「お化け」の存在(および、その行為)は、科学的に(証拠を挙げて)証明することも、否定することもできないのです。だからこそ、「信じる」しかないのでしょう?そこに気付かず、こういう脅迫的言動をするから「カルト」(異端宗教)と言われるのです。

 

すべての人が不完全であり,徐々に死に向かっているということは,聖書が血について述べている事柄の中心にある真理へとわたしたちを導きます。もしわたしたちがこの真理を理解し認識するなら,血が実際にどのように命を,つまりわたしたちの命を永遠に救えるかが分かるでしょう。

永遠の命など、退屈で仕方ないと思いますが?少なくとも、永遠に悪魔と戦う覚悟は必要ですね。今から準備しておかなくて大丈夫ですか?悪魔の言葉からは永遠に逃げ続けるのですか?

 


「命を救う唯一の血」

 前に注目したとおり,神は,血を食べてはならないと全人類にお告げになりました。なぜでしょうか。血は命を表わすからです。(創世記 9:3-6)神は,イスラエルにお与えになった律法の中でその点をさらに詳しく説明されました。律法が批准された段階で,犠牲にされた動物の血は祭壇の上で用いられました。(出エジプト記 24:3-8)その律法は,聖書に記されているとおり,すべての人間は不完全で罪深いという事実に注意を向けさせました。神はイスラエル人に次のことをお知らせになりました。つまり,イスラエル人は神にささげる動物の犠牲により,自分たちの罪を覆っていただく必要を理解できるということです。(レビ記4:4-7,13-18,22-30)当然のことながら,それは神が当時の人々に求められた事柄であって,今日の真の崇拝者たちに求めておられる事柄ではありません。しかし,そこには今のわたしたちにとって非常に重要な意味があります。

 神の民が血によって自分の命を支えることを拒むのは,それが健康を害することだからではなく,それが神聖を汚すことだからです。血が汚染されているからではなく,血が貴重なものだからです。

 神ご自身が,それらの犠牲の背後にある原則を説明しておられます。『肉の魂[つまり,命]は血にあり,わたしは,あなた方が自分の魂のために贖罪を行なうようにとそれを祭壇の上に置いたのである。血が,その内にある魂によって贖罪を行なうからである。それゆえにわたしはイスラエルの子らにこう言った。「あなた方のうちのいずれの魂も血を食べてはならない」』―レビ記 17:11,12。

 贖罪の日と呼ばれた古代の祭りにおいて,イスラエルの大祭司は神殿,つまり神への崇拝の中心地に,犠牲にされた動物の血を携えて行きました。そのようにするのは,民の罪を覆っていただけるよう神に求める象徴的な方法だったのです。(レビ記16:3-6,11-16)それらの犠牲が現実にすべての罪を除き去ることはなかったので,彼らはそれを毎年繰り返さなければなりませんでした。それでも,この血の用い方の中に,意味深い型が定められています。

「血は命の象徴」とする考えは「偶像崇拝」ではありませんか?

 

聖書の重要な教えの一つは,やがて神が,すべての信者の罪を十分に贖うことのできる完全な犠牲を備えてくださるということです。これは贖いと呼ばれ,予告されたメシアつまりキリストの犠牲に焦点を合わせています。

 聖書はメシアの役割を贖罪の日に行なわれた事柄と対比させ,こう述べています。「キリストは,すでに実現した良い事柄の大祭司として来た時,手で造ったのではない……より偉大で,より完全な[神殿]を通り,……やぎや若い雄牛の血ではなく,ご自身の血を携え,ただ一度かぎり聖なる場所[天]に入り,わたしたちのために永遠の救出を得てくださったのです。そうです,律法によれば,ほとんどすべてのものが血をもって清められ,血が注ぎ出されなければ,許しはなされないのです」―ヘブライ9:11,12,22。

 なぜわたしたちが血に関する神の見方を持つ必要があるかということは,これで明確になります。「わたしたちはこの方[イエス]により,その血を通してなされた贖いによる釈放,,わたしたちの罪過の許しを……得ているのです」 ―エフェソス 1:7

血に関するモーゼの律法は、イエスによって破棄されたと聞いております。

 

 そうです。 神は創造者としてのご自分の権利と調和して,血の有用な唯一の用い方を定められたのです。昔のイスラエル人は動物や人間の血を取り入れないことにより,健康に益する結果を刈り取ったかもしれませんが,それは最重要な点ではありませんでした。(イザヤ 48:17)彼らは,他の方法は健康に有害であるということをおもな理由として,血で命を支えることを避けるべきだったのではありません。それが神にとって神聖を汚すことであるゆえに,避けるべきだったのです。彼らが血を避けるべきだったのは,血が汚染されているからではなく,許しを得るために血が貴重なものであったからでした。

許しはイエスによって、既に与えられたと聞いております。

 

 使徒パウロは贖いについてこのように説明しています。「わたしたちはこの方[キリスト]により,その血を通してなされた贖いによる釈放,そうです,わたしたちの罪過の許しを,その過分のご親切の富によって得ているのです」。(エフェソス 1:7)この部分の原語のギリシャ語は適切にも「血」と訳されていますが,幾つかの聖書翻訳は誤りを犯し,「死」という語を用いています。したがって読者は,血に関する,また神が血と結びつけておられる犠牲の価値に関する創造者の見方に重きが置かれていることを見過ごしてしまうかもしれません。

 聖書の主題は,キリストが完全な贖いの犠牲として死んだとはいえ,死んだままではいなかったことを中心に展開しています。イエスは,神が贖罪の日に関して定められた型に倣い,天に上げられ,「わたしたちのために神ご自身の前に出てくださった」のです。イエスはそこで,ご自分の犠牲の血の価値を差し出されました。(ヘブライ 9:24)聖書は,『神の子を踏みつけ,彼の血をあたりまえのものとみなす』ような歩みを避けなければならないことを強調しています。そのようにしてのみ,わたしたちは神との良い関係および神との平和を保つことができるのです。―ヘブライ 10:29。コロサイ 1:20。

イエスが神に捧げたのが「命」であれ、「血」であれ、自分の死をもって、全ての人の罪を許されるよう神にお願いしたことは間違いありません。そして許しは既に与えられたと聞いております。無神論者の私にはどちらでも構わないことですが。

 


「血によって救われる命を享受してください」

 血に関して神が言われることを理解するなら,わたしたちは命を救う血の価値に対して非常な敬意を抱くようになります。聖書によれば,キリストは「わたしたちを愛しておられ,ご自身の血によってわたしたちを罪から解いてくださった」方です。(啓示 1:5。ヨハネ 3:16)そうです,イエスの血により,わたしたちはわたしたちの罪の十分かつ永続的な許しを得ることができるのです。使徒パウロはこう書きました。「わたしたちはキリストの血によって今や義と宣せられたのですから,ましてこの方を通して憤りから救われるはずです」。そのようにして命は血によって救われ,永続的なものとなるのです。―ローマ 5:9。ヘブライ 9:14。

聖書に過去形で書かれていることを、現在進行形で書き換えることはクリスチャンには許されるのですか?イエスの血は、既に流されたのでしょう?

 

 エホバ神はずっと昔,キリストによって『地のすべての家族は自らを祝福する』という保証をお与えになりました。(創世記 22:18)その祝福には,地を元通り楽園にすることが含まれています。その時,信仰を持つ人々が,病気や老化によって,また死によっても苦しめられることはもはやありません。彼らは,医療関係者が現在わたしたちに提供できる一時的な助けをはるかにしのぐ様々な祝福を享受するのです。次のようなすばらしい約束があります。「神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死はなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない。以前のものは過ぎ去ったのである」―啓示 21:4。

 ですから,わたしたちが神のご要求すべてについて真面目に考えるのは非常に賢明なことです。それには,血に関する神の命令に従い,医療の関係した状況においても血を誤用しないことが含まれます。そのようにしてわたしたちは,ほんの短い間だけ生きるのではありません。むしろ,完全な人間として永遠の命を得るという将来の見込みを含め,命に対する深い敬意を表わすのです。

 このような「血は特別」という教えは、イエスの教えとは矛盾しませんか?「エホバの証人」は、本当に(イエスを信じる)キリスト教と言えるのでしょうか?
 血には、何か特別で神秘的な力があるので、敵の血を飲むことで強くなろうとした未開な人々と、血は神聖なものだから深い敬意を表して避けなければならない、という考えは、基本的に同じ非科学的(野蛮)な態度です。


「エホバの証人−外科的,倫理的挑戦」

 この記事は,アメリカ医師会の承認のもとに「アメリカ医師会ジャーナル」(JAMA,英文),1981年11月27日号,246巻,第21号,2471,2472ページから転載したものです。著作権,1981年,アメリカ医師会。

 医師はエホバの証人を治療する際に特別の挑戦に直面する場合があります。エホバの証人としての信条を持つ人々は,強い宗教的信念のために,同種の,もしくは自己の全血,分離RBC[赤血球],WBC[白血球],血小板などを受け入れません。(無血充填の)人工心肺,透析,その他類似の装置については,体外循環が中断されない限り,多くの証人はその使用に応じます。医療関係者は責任を問われることを懸念する必要はありません。証人たちは,事情をわきまえた上で血の使用を拒むことに関して,医療関係者に責任を負わせないよう十分な法的措置を講じるからです。証人たちは無血性の代用液を受け入れます。そうした代用液の使用と細心の技法とによって,医師はエホバの証人の成人や未成年の患者に対し,あらゆる形の大手術を行なっています。こうして,「人の全体」を扱うという信条と合致した,そのような患者のための医術の基準が明らかになってきました。(JAMA 1981;246:2471-2472)

 医師たちは一つの挑戦に直面しています。それは,保健上の大きな論争点として次第に大きくなる挑戦です。アメリカには,輸血を受け入れないエホバの証人が50万人以上います。エホバの証人および証人たちと交わっている人々の数は増加しています。以前には,輸血の拒否を法律上の問題とみなし,自分たちが医学的に見て妥当と信ずる処置を進めるために裁判所の認可を求める医師や病院当局者が多くいましたが,最近の医学的文献は,この問題に対する態度に,注目すべき変化の生じつつあることを示しています。これは,ヘモグロビン量の非常に低い患者に対する外科的経験が増えた結果,また事情をわきまえた上での同意に関する法律上の原則がいっそう意識されるようになったことによるものでしょう。

 今では,エホバの証人の成人や未成年者の関係する,随意的手術や外傷の治療の多くが輸血なしで行なわれています。最近,エホバの証人の代表者たちは,[米]国内の幾つかの主要な医療センターの外科医や事務当局者との会合を行ないました。それらの会合は,理解を深め,血液回収法や移植にかかわる問題を解決して,医学もしくは法律,またはその双方の面での対立を回避するのに役立ちました。

 「多くが」=「全てが」ではありません。米国における「エホバの証人」の活動には敬意を払います。我が国でも「エホバの証人」と医療人とは、もっと対話すべきであると思います。「エホバの証人」にはショックでしょうが、体外循環は実は、かなりの時間中断されることがあります。空気塞栓の予防のため、30分程度人工心肺を中断することは、珍しいことではありません。協会もそれは、当然知っています。

 


「治療に対する証人たちの見方」

 エホバの証人は内科,ならびに外科治療を受け入れます。事実,証人たちの中にも多数の医師がおり,外科医もいます。しかし,エホバの証人は宗教的信念を強く持つ人々であり,次に挙げるような聖書の章句によって自分たちには輸血が禁じられていると信じています。「ただし,その魂つまりその血を伴う肉を食べてはならない」。(創世記 9:3,4)「[あなた]はその血を注ぎ出して塵で覆わねばならない」。(レビ記17:13,14)「淫行と絞め殺されたものと血を避けるよう(に)」。(使徒 15:19-21)1

 多数の医師とは、具体的に何名でしょう?協会しか知らない事実なのですから、概算でも結構ですから公表するべきです。私の知る限り、日本には「エホバの証人」の医師は、少なくとも3名おります。この中に、外科医は1人もおりません。聖句の解釈に対する疑問は既に述べました。

 

 これらの章句は医学的な用語を用いて記されてはいませんが,証人たちはこれらの句により,全血,分離赤血球,血漿などの輸血,また白血球や血小板の投与は認められていないと考えています。しかし,証人たちの宗教上の理解によれば,アルブミンや免疫グロブリンなどの成分や血友病製剤は絶対に使用できないというわけではありません。これらを受け入れることができるかどうかについては,証人たち各自が個人的に決めなければなりません。

 体から採り出された血液は廃棄すべきものと証人たちは信じています。そのため彼らは,預血による自家輸血を受け入れません。血液の貯蔵を伴う,術中の出血採集や血液希釈の手法は彼らにとって受け入れ難いものです。しかし,多くの証人たちは,透析装置や人工心肺(無血充填),および体外循環を中断させずに行なわれる術中血液回収法の採用を認めます。医師は患者が良心に従って受け入れる事柄について,患者個人と話し合うべきです。

 聖書は臓器移植について直接には何も述べていない,と証人たちは感じています。それで,角膜,腎臓,その他の組織の移植に関する決定は,証人たち各人が行なわなければなりません。

この主張は、良く理解して尊重しております。いつも「輸血も臓器移植ということを認めれば楽になるのに」と同情しております。

 


「大手術も可能」

 外科医は,血液製剤の使用に対するエホバの証人たちの立場が「医師の手にかせを掛ける」ことのようにみなして,しばしば証人たちの治療を拒んできました。しかし今では,このような状況を自分たちの技術に挑む新たな複雑要素の一つにすぎない,という見方をする医師が少なくありません。証人たちは,コロイド質または結晶質の代用液に関しても,また電気メス,低血圧麻酔法,低体温法に関しても反対してはいませんから,これらの方法も成功裏に用いられています。ヘタスターチ(ヘスパンダー)鉄デキストランの大量静脈内注入,「超音波メス」などの現時点での活用法および今後の活用法も有望であり,宗教上の問題もありません。また,最近開発されたフッ素化合物の代用血液(フルオゾール-DA)が安全で有効であることが実証されれば,その使用も証人たちの信条と相いれないものではありません。

 1977年,オットとクーリーは,エホバの証人に対して輸血をせずに行なった542例の心臓血管手術について報告し,その処置法が「受容可能な低い危険度」で行なえるとの結論を出しました。わたしたちからの要請に応じて,クーリーは最近,未成年者22%を含む1,026例の手術を統計的に調べ,「エホバの証人グループの患者の受けた手術の危険度は,事実上他の人々の場合よりも高くはなかった」との判断を下しました。同様に,ミカエル・E・ディベイケイ(MD)も,「[証人たちの関係した]事態の大多数において,輸血を用いない手術に伴う危険は,我々が輸血を用いる患者たちの場合と少しも異ならない」と報告しました。(1981年3月の私信)文献はまた,泌尿器系および整形外科の大手術の成功例についても記録しています。G・ディーン・マクエウェン(MD)とJ・リチャード・ボウエン(MD)は,「[証人たちの]未成年者20人に対して」脊椎後方固定術が「成功裏に行なわれた」と書いています。(未公表資料,1981年8月)両医師はさらにこう述べています。「外科医は,輸血を拒否する患者の権利を尊重しつつ,なおも患者の安全を図るような外科処置を講ずるという考え方を確立する必要がある」。

20年前の文献ですが、正論です。もちろん「大多数=すべて」ではありません。「外科医は,輸血を拒否する患者の権利を尊重しつつ,なおも患者の安全を図るような外科処置を講ずるという考え方を確立する必要がある」のは当然のことです。まるで、そういうことを現在の外科医が無視しているかのような誤解を招く表現は慎んで下さい。

 

 ハーブスマンは,幾人かの若者の場合を含む「外傷による大量失血」の症例における成功について報告しています。彼は次のことを認めています。「血液が要求される場合,証人たちは多少不利な立場に立たされる。しかし,我々には,血液の補充に代わる処置法のあることも全く明らかである」。「結果として生じる法律上の問題を恐れて」多くの外科医がエホバの証人を患者として受け入れることをためらってきたことを述べつつ,それが正当な理由による懸念ではないことを彼は示しています。

「多少不利な立場に立たされる」のです。


「法律的問題と未成年者」

 エホバの証人は,医師や病院側に責任を負わせないようにするため,アメリカ医師会の設けた書式に進んで署名します。また,大抵の証人たちは,医療および法律関係者と相談の上で用意された,「医療上の緊急なお願い」と題する,関係者の署名や日付の記されたカードを携帯しています。これらの文書は患者(またはその財産)に対して拘束力を持ち,医師たちにとっては保護となります。ウォーレン・バーガー判事は,そのような権利放棄証書に署名がなされている場合であれば,医療過誤の訴えには「理由がないとされるであろう」と述べています。また,「専断的医療と信教の自由」に関する分析的研究の中でパリスもこの点に関して注解し,こう書きました。「文献の調査を行なった一解説者はこう報告した。『わたしは,輸血を望まない患者にそれを強制しなければ医師は……刑事……責任を問われる,という意見に何の根拠も見いだせなかった』。その危険は,現実の可能性というよりは,想像力に富みすぎた法的思考力の産物であるように思われる」。

 未成年者の監護が最大の関心事となり,その結果,しばしば,児童遺棄の規定に従って親に対して法的処置が取られています。しかし,そのような処置は,証人たちの事例によく通じている多くの医師や弁護士たちによって疑問視されています。彼らはエホバの証人の親たちが自分の子供たちのために十分な医療上の世話を受けさせようとしていることを信じています。証人たちは親としての自分たちの責任を回避したり,責任を判事その他の第三者に転嫁したりすることを望んでいるのではなく,家族の宗教上の信条を考慮してもらいたいと願っているのです。カナダ医師会の元幹事A・D・ケリー博士はこう書いています。「未成年者の両親,また意識のない患者の最近親者が患者の意思を解釈する権利を有しており……わたしは,子供を親の保護監督下から引き離すために午前2時に集まったムート訴訟のやり方には感心しない」。

アメリカやカナダの法体系と日本のそれは全く違うものです。日本では日本の法律に従わなければならないことは当然です。

 

外科手術,放射線,化学療法など,危険と益の両面の可能性があるような場合,子供の監護に関して親が発言権を持つということは自明の原則です。輸血の危険性の問題をさらに越える倫理上の理由のために,証人である親は,宗教的に禁じられていない療法が採用されることを求めるのです。このことは,家族の基本的な信条を侵害する処置によって永続的な心理社会的損害が生じる可能性を無視せずに,「人の全体」を扱おうとする医学上の信条と合致します。今では,証人たちを扱った経験を持つ[米]国内の大きな医療センターが,小児科の症例をも含めて,証人たちを扱うことを望まない医療施設から移される患者を受け入れるという例が少なくありません。

発言権=強制力や決定権ではありません。原則には常に、例外があります。


「医師の直面する挑戦」

 用い得る技術のすべてを駆使して命と健康を守る仕事に献身的に従事している医師としては,エホバの証人の治療に当たる場合,ジレンマに陥るように思えるかもしれません。それは理解できることです。証人たちに施された大手術に関する一連の論文を編集したその前書きの中で,ハーベイはこう認めています。「わたしは,自分の仕事に対する干渉ともなるこれらの信条を確かに煩わしく思う」。しかし,彼はさらにこう述べています。「恐らく我々も,外科手術が各人の個人的技量に依存する職業であることを容易に忘れているのかもしれない。技量は向上させ得るものである」。

 ボルーキ教授18は,フロリダ州デード郡の非常に多忙な外科病院の一つが証人たちの「治療をいっさい断わる方針」を取っているという憂慮すべき報道に注目しました。そして次の点を指摘しています。「このグループの患者に対する外科処置は,大抵の場合,普通より危険が少ない」。彼はさらにこう述べました。「外科医は,現代医学の一つの手段を奪われていると感じるかもしれないが……これらの患者の手術を行なうことによって多くのことを学べるとわたしは確信している」。

 証人たちの患者のことを面倒な問題と考えるよりも,この事態を医学上の挑戦として受け入れる医師が次第に多くなっています。彼らはその挑戦に応じる過程でこのグループの患者のために用いうる医術上の基準を発展させてきており,それは現在[米]国内の多くの医療センターで受けいれられています。同時に,それらの医師は,患者の総合的な益を図るための最善の治療も行なっています。ガードナー,その他の人々19はこう述べています。「患者の肉体上の病気がいやされても,その当人が神との関係における霊的生命とみなすものが損なわれるのであればだれの益になろう。それは無意味な生,恐らく死より悪いものとさえなる」。

 エホバの証人は,自分たちが固く守る信念のために医学的に言って,ある程度危険が増大するように見え,その治療が複雑になり得ることを認めています。そのため,証人たちは一般に,自分たちの受ける治療に対して普通以上の感謝を表わします。また,強い信念と生きようとする強い意思という肝要な要素を持ち合わせている上に,医師や医療関係者に喜んで協力します。こうして,患者と医師の双方が一体となって,この特異な挑戦に立ち向かうのです。

 このような医師の態度や努めは当然かつ称賛に値するものです。医師も「エホバの証人」も、お互いに尊敬し、尊重し合うことは、素晴らしい態度だと思います。しかし、以上の意見が、「絶対的輸血拒否」を推薦するものでも、「貯留式自己血輸血」を否定するものでもないことも、また明らかです。もしそうであるなら、それは「誤った情報によって誘導された人体実験」の勧めになってしまうからです。

 


「血: だれの選択か,だれの良心か」医学博士 J・ロウエル・ディクソン

 この記事は,「ニューヨーク州医学ジャーナル」誌(英文)の承認のもとに,同誌の1988年,第88号,463,464ページから転載したものです。著作権,ニューヨーク州医学協会。

 医師たちには,病気や死と闘うために知識と技術と経験を適用する義務が課されている。しかしながら,推薦されている治療法を患者が拒むならどうだろうか。患者がエホバの証人で,治療に用いるのが,全血,分離赤血球,血漿,血小板であるときには,そういう事態が生じるであろう。

 血液を使用する場合であるが,患者が無血の治療を選択することによって,献身的な医療関係者は拘束されるようになる,と医師は考えるかもしれない。とはいえ,エホバの証人以外の患者でも,医師の推薦に従おうとしない場合が多いことを忘れてはならない。アッペルバウムとロートによれば,医学実習のための教育病院の患者の19%は,少なくとも一つの治療法あるいは処置を拒んだ。ところが,そうした拒否例の15%には「生命の危険があった」のである。

これは喜ぶべき事実なのでしょうか、悲しむべき事実なのでしょうか?誇るべきことでしょうか、恥じるべきことでしょうか?「エホバの証人」の「絶対的輸血拒否」と、直接関係のある問題でしょうか?

 

「医師は一番よく知っている」という見方が一般にあるので,大半の患者は医師の技術と知識に敬意を払う。しかし,医師がこの文句を科学的な事実でもあるかのようにして事を進め,その考えに従って患者を扱うことには大きな危険が潜んでいる。確かに,医師としての訓練,免許,経験などにより,我々は医学界において顕著な種々の特権を与えられているが,我々の扱う患者は種々の権利を有している。また,ご承知のとおり,法律は(憲法も)種々の権利に重きを置いているのである。

 ほとんどどの病院の壁にも,「患者の権利章典」が掲げられているのが見える。その権利の一つは,十分知らされた上での同意である。これは,十分知らされた上での選択と言ったほうが正確かもしれない。種々の治療(もしくは,治療をしないこと)から生じ得る結果が患者に十分知らされた後,患者がどんな方法に従うかは,患者の選択に任されている。ニューヨーク市ブロンクス区のアルバート・アインシュタイン病院にある輸血とエホバの証人に関する方針の草稿には,こう記されている。「無能力者ではない成人のすべての患者には,自分の健康にどれほど不利益な結果が及ぼうとも,治療を拒否する権利がある」。

 医師たちは倫理や責任について懸念する発言をするかもしれないが,法廷は患者による選択の優位性を強調してきた。ニューヨーク州の最高裁判所は,「自分自身の治療方針を決定する患者の権利は最も価値あるもの[である]。……能力を有する成人の患者に付与されている,医療を拒む権利を尊重するとき,医師が医師としての法的もしくは職業上の責任の不履行を問われることはあり得ない」と述べた。さらに同法廷は,「医療専門家としての倫理的な誠実は重要であるが,ここで言明されている基本的人権にまさるものとはなり得ない。最も価値があるのは,医療制度から出される要求ではなく,個人の必要と欲求である」と語っている。

 その通りです。最も価値があるのは「理性ある個人の自由な意志による必要と欲求」です。ある書物(聖書を最初から最後まで、キチンと読みましたか?)に書いてあるから、誰かがそう言った(「ここを読みなさい」と言われたところしか読んでいないのではありませんか?)から、ではありません。これこそは、「エホバの証人」に禁止されている「独立の精神」ではありませんか?

 

 医師たちはエホバの証人が輸血を拒むとき,最善とは思えない方法を取ることを考えて,良心の痛みを感じるかもしれない。しかし,良心的な医師たちにエホバの証人が求めているのは,そのような状況下で可能な限り最善の別の方法を取ることである。我々はしばしば,高血圧,抗生物質に対する重症アレルギー,特定の高価な設備が利用できないことなど,種々の状況に合わせて治療法を変えなければならない。エホバの証人の患者の場合,医師たちには,患者の選択と良心,血を避けるという患者の道徳的・宗教的決定と調和して,医療上および外科上の問題を首尾よく扱うことが求められているのである。

 エホバの証人の患者の大手術に関する数多くの報告には,大勢の医師たちが,血を取り入れないようにという求めに対して,正しい良心を保ちつつ首尾よく順応できたことが示されている。例えば,1981年にクーリーは,1,026件の心臓血管手術を回顧しているが,その22%は未成年者に対するものだった。彼は,「エホバの証人グループの患者の受けた手術の危険度は,事実上他の人々の場合よりも高くはなかった」と結論している。カンボウリスはエホバの証人の関係した大手術について報告しているが,それらエホバの証人の中には,「輸血を拒んだために,緊急に必要とされた外科的処置を施されなかった」人たちがいた。カンボウリスは次のように語っている。「すべての患者は治療に先立ち,手術室における状況にはかかわりなく,宗教的信念が尊重されるとの確約が与えられた。この方針が面倒な結果を生じさせることはなかった」。

 患者がエホバの証人の場合,選択の問題を超えて,良心が関係してくる。医師の良心のみを考えることはできない。患者についてはどうだろうか。エホバの証人は,命は血によって表わされており,神の賜物であると考えている。彼らは,クリスチャンは『血を避けている』べきであるという聖書の命令を信じている。(使徒 15:28,29)したがって,長年にわたって信奉されてきた患者のそうした宗教的な確信を,医師が善意に基づいて踏みにじるなら,悲劇的な結果が生じかねない。法王ヨハネ・パウロ2世は,良心に反することをするよう人に強制することは「人間の尊厳に加えられる最も痛ましい打撃である。ある意味で,それは物理的な死に至らしめること,もしくは命を奪うことよりも悪質である」と語っている。

 間違った情報に基づく良心や確信すら尊重されるのでしょうか?医師の良心に従って「それでも絶対に輸血が必要な場合はある」と主張することは、いけないことなのでしょうか?医師の良心が痛むのは「エホバの証人」が輸血を拒む時ではありません。医師はそれほど傲慢ではありません。医師の良心が本当に痛むのは、輸血を拒んで死んで行く「殉教者」を見るときです。
 「良心に反することをするよう医師に強制することは、人間(医師個人)の尊厳に加えられる最も痛ましい打撃である。ある意味で,それは物理的な死に至らしめること,もしくは命を奪うことよりも悪質である」のではありませんか?医師も人間であることを忘れて欲しくありません。間違った良心を持っているのは医師の方なのですか?「エホバの証人」なのですか?
 交通事故で運ばれた子供に輸血をしようとして、両親に拒否され、子供を見殺しにした医師は、心に深い傷を負います。何日も仕事が手につかず、食事も喉を通りません。何年もたっているのに、夜中に飛び起きることもあると言います。両親を憎み、エホバの証人を憎み、すべての宗教をすら憎むと言います。それを知って、なおかつ、絶対的無輸血を貫くというのなら、あなた方の宗教は「人を傷つける宗教だ」と言われ続けることでしょう。私は無神論者ですし、輸血を拒否してなくなった方の診療に直接関わったことはありません。従って、エホバの証人に特別の偏見も憎しみも持っておりません。ギリギリの極限状態での絶対的無輸血を主張しない限り、あなた方「エホバの証人」とは良い隣人でいられることでしょう。

 

 エホバの証人は宗教上の理由で血を拒むが,エホバの証人ではない患者であっても,エイズ,非A非B型肝炎,免疫反応などの危険のため,血を避けることを選ぶ患者が次第に増えてきた。それらの患者には,そのような危険が益と比べて小さく見えるかどうかについて,こちらの見解を示すことができる。しかし,アメリカ医師会が指摘しているように,「医師が推薦している治療法や手術に賭けてみるか,そうせずに生活することに賭けてみるかを最終的に決定するのは[患者である]。それは,法律で認められている,個人の自然権である」。

 この点に関連してマックリンは,「輸血をせずに,出血多量による死の危険を冒した」一人のエホバの証人に関して,危険性-受益性の問題を持ち出した。一人の医学生は,「彼の思考過程は健全だった。考え得る唯一の治療法が宗教的信念に反するときはどうしたらよいのだろう」と述べた。マックリンはこう論じている。「我々は,その患者が誤りを犯していることを痛感するかもしれない。しかしエホバの証人は,輸血を受けるなら……永遠の断罪に至ると信じている。我々は医療において危険性-受益性の分析を行なうよう訓練されているが,もし地上で命を長らえるよりも永遠の断罪を重視するとしたら,この分析は異なった様相を帯びるようになる」。

 「エホバの証人」は絶対に、自らの過ちに気付かない(改心することはない)という固定観念(誤解)には根強いものがあります。マックリン医師もそう信じて、臆病になっているようです。もと「エホバの証人」であった方とお話しできることは、私に大きな勇気を与えてくれました。

 

 ベルチロとデュプレイは,本誌のこの号で「オズボーン事件に関して」に言及し,扶養家族の生活の安定を確保するという関心事を強調しているが,その問題はどのように解決されただろうか。それは,未成年の二人の子供を持つ父親が重傷を負った事件だった。裁判所は,当人が死亡した場合,親族が子供たちの物質的かつ霊的な世話を行なうという判決を下した。そのため,裁判所は近年の他の事例と同様,治療に関する患者の選択を正当に無視できるような強制力を持つ国益を見いだせなかった。つまり,本人が強く異議を唱えている治療法を認可するために司法が介入することは,正当とされなかった。患者は代替療法によって回復し,自分の家族の扶養を続行した。

 医師がこれまでに直面した,あるいはこれから直面するであろう症例の圧倒的大多数において,血を用いずとも成功できるというのは真実ではないだろうか。我々が研究した事柄,そして最もよく知っている事柄は医学的な問題と関連しているが,患者は,個人としての価値観や目標を無視してはならない人間である。生活に意味を付与する,自分自身の優先事項や道徳律や良心について最もよく知っているのは,患者である。

 「圧倒的大多数」というのは感じ方の問題ですが、おそらく真実ではありません。「血を用いずとも成功できる」は「緊急事態以外で、予め貯留された自己血があれば」として頂ければ、賛成です。医師が常に痛感しているのは、「自分自身の優先事項や道徳律や良心について最もよく知っている人は、医師を含めて殆どいない。」ということです。人間なんてそんなものです。神様にはなれません。特に医学は研究すればするほど、実はよく分かっていないことが沢山あるのです。それにすら気付かずに、不用意に「最もよく知っている」などと発言するのは「傲慢」以外の何者でもありません。

 

 エホバの証人の宗教的良心を尊重するのは,我々の技術にとって挑戦となるかもしれない。しかし,この挑戦に応じるとき,我々は例外なく大切にしている価値ある自由を強調しているのである。ジョン・スチュアート・ミルがいみじくも書いたとおりである。「これらの自由が全体的に尊重されていない社会は,それがどんな統治形態のもとにあろうと,自由ではない。……身体的にも精神的にも霊的にも,自分自身の健康をふさわしく守るのは一人一人の人間である。他の人々にとって良いと思える生き方を強制するよりも,自分自身の目に良いと思える生き方をする人を許すほうが,人間にとって得るところは大きい」。

Copyright (c) 1998 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania. 著作権所有。

 長らくお付き合いいただきましてありがとうございます。以上の文章を検討して断言できることがあります。この文書は、明らかに洗脳用に書かれております。正しい知識を持たずに読めば「私も絶対輸血はしたくない」と思い込んでしまうでしょう。その根拠を列挙します。
1)引用文献の一部分(自分の主張に都合の良いところだけ)を取り出して、元の意見の全体的な主張を無視しています。
2)何百年も前の医学者の迷信を、現代の医師が信じているように書かれています。
3)輸血は危険であるとする統計数字は、どれもかなり昔のものである上、はっきりと記載されています。
4)輸血はそれほど危険でないとする統計数字(調べれば簡単に分かる)は、「少なくない」「稀ではない」「可能性がある」と書かれています。
5)無輸血手術の危険性や欠点には、全く触れられていないか、ほとんど問題ないとして無視されています。
6)どんな場合でも無輸血での医療が可能であるような、不自然かつ非科学的な主張です。
7)骨髄移植や貯留式自己血輸血のことは無視しています。
8)輸血によって助かった人は輸血によって障害を受けた人よりはるかに多いという事実を無視しています。
9)献血拒否については一言も触れられていません。
10)「エホバの証人」が認めている多くの血液製剤ですら、献血なしには成り立たないものなのです。
 病院連絡委員会からの疑問にもありましたが、協会の主張(「死んでもいいから輸血を拒否する」という絶対的輸血拒否)には、一貫した科学的根拠もなければ、聖書からの宗教的根拠もありません。統治委員会も、とっくに気が付いていることは間違いありません。
 間違った聖書解釈を主張するなら、自分たちの宗教は「キリストの言葉や新約聖書」より「旧約聖書の契約」を重んじる、独特な宗教であることを素直に認めるべきです。極めて原始ユダヤ教に近い宗教ではありますが、それはそれで尊重されるべきでしょう。
 もし、協会および「エホバの証人」が、「自分たちもクリスチャンである」と主張するのならば、「絶対的輸血拒否」の方針は直ちに撤回するべきです。

稿を終えるにあたり、福井医科大学輸血部Dr. Yuji Wano、ならびに埼玉県伊那赤十字血液センター医薬品情報部の皆様にご指導を頂きましたことに深謝いたします。

 

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