携帯電話再び


 最近はめっきり更新しなくなったせいか感想メールは来なくなった。うーんちとサボりすぎたか?。まあ頂くメールのほとんどが携帯電話とマナーの感想だったのだが。私自身はあの文章は電車内での携帯電話の話だけではなく世の中にはびこる安易な制約に対し異を唱えるつもりで書いたのだ。だが当時は携帯電話のマナーに関する注目度が高かったせいか頂くメールは携帯電話の使用の是非についてばかり、まあ例とはいえ文章の大半が携帯電話の話やしタイトルまであれだったのだから仕方がないか。という訳で今回は携帯電話に絞って書く。

 列車内での携帯電話の使用は制約するべきだと考える方から頂いたメールで「あなたは電車の中で携帯を使う人間に不快感を感じないのか?」と問われた。私の回答は「不快である事が多い」である。どう見ても脳みそが高野豆腐でできてるとしか思えないくそ馬鹿が列車内の地べた(変な表現)にへたり込んでどうでもいい話をエンドレスでやられた日にゃ窓から外にほりだしたくなる(今の列車は窓が開かないから実行できないのに感謝しやがれ!)。そしてわたし自身の事はといえばあまり使用しない、理由はなんとなく格好が悪いと思っているからだ。

 では何故列車内での携帯電話の使用を認めるような発言をしたのかと聞かれれば「私がいやだから認めない」と言うのは一つの横暴であるからだ。技術的、理性的に考える範囲において携帯電話を列車内で禁止する理由は私には思いつかない。それらは心掛け、気遣い、美意識の問題であってあえて禁止を明言する程の事ではないと思うのだ。

 マナーとはいったい何であろうか?前の文章では私はこの疑問を副題に掲げながら結論を避けた。それはわたし自身その結論を持っていなかったからである。現時点での私はマナーというものは「同じ感覚を持つ者を認識するための行動様式」であると考えている、つまり作法と同じように流儀や常識や感覚が異なれば当然そのマナーも異なるのだ。

 鉄道は公共交通機関である。まあ、現実にはJRを含め私企業が運営していることが多いので公共機関であると言い切るには若干無理があるものの極めて公共性が高いと言える。公共性が高い場所、設備に於て重要な事はその場所、設備を利用するのを阻害する場合を除きできるだけ多くの利用者を受け入れることである。 多くの人間を受け入れるということはその価値観の多様性を認めるということであり、そしてそれは利用者はその多様性を認め、納得した上で利用するべきであると言い換えることもできる。それが嫌ならば金なり時間なり知恵なりを使って公共性の高いものを避ければよいのだ。

 「携帯電話を列車内で使用することは格好悪い。」と表明し自らそれを実行する事については何とも思わない、そしてそれを他人に勧めるのもかまわない。そう思う人が増えれば列車内での通話は減るだろう(私も通勤途上[今より]快適にすごせる)。しかしそれを強制することに、しかも表現上はお願いというあいまいな形をもって行っていることに、どうしようもない気持ち悪さを感じるのである。

 私は基本的には自由でありたいと思っている。規則や規制などはできるだけない方がよいと思っている。だからこそ自分が気に食わないという理由だけで他人に制約を掛けたくは無い。


2004/05/10 ちょこっと加筆、まとまりが無いので後でまた修正する予定。

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