アルバイトで弁当の配達をしていたときのことです。お客さんの中に、一軒の自動車整備工場がありました。そこで飼われていた犬の話です。
アルバイト最初の三日間は前任の人と一緒に回ってルートを覚えます。最初の日の配達のとき、「ここの犬は吠えるし、飛びついてくるから気を付けるんだよ」と教えられました。配達はその前任の人がやってくれました。午後、容器の回収のとき、私が行きました。二匹の黒い犬がいい声(*1)で吠えてきました。
犬は怒ったときは鼻にしわを寄せて恐ろしい顔つきになります。でもこのときはそうではなかったので「へっへーん、お前なんかこわくないよーん」と言いながら前を通ろうとしたとき。来ました。目にも止まらぬ速さでふくらはぎに。あらら。
あとで見ると、私の足に穴は開いていませんでしたが、赤くなっていました。
悔しいので仲良くなってやろうと思いました。
二匹のうち一匹はまもなく吠えなくなりましたが、かみついた方は行く度に吠えます。
毎日二回、行く度に声をかけます。「クゥロォ(*2)、通っていいかい」。いいと言ってくれないので、仕方ありませんから、遠回りして配達&回収をします。
約二週間後、クロは吠えずに前を通してくれるようになりました。よーし、次は触ってやるぞ。
吠えなくなっても、回収のとき(*3)前で立ち止まってみるとクロはうなります。「ウ〜〜」。立ち止まっても唸らなくなったのはさらに4,5日経ったとき。
そこでクロの前にしゃがみ込んでみたら・・・。また目にも止まらぬ速さで鼻の頭に頭突きがドン!と来て眼鏡をとばされました。うーん、まだダメかあ。
それからも、少しずつ近づかせてくれるようになったものの、なかなか触らせてはくれません。手を伸ばすと怒りの表情を見せたり、おびえた様子を見せて吠えてみたりと日によって反応は違うのですが、要するに触らせてくれません。(*4)
やっと触らせてくれたのは最初から約一ヶ月経ったときでした。
クロの首やら喉やらつかんでゴシゴシしていると、もう一匹がのそーっと来て見ています。・・・そうだ。忘れていた。こいつも居たんだ。よしよし、お前もな(ゴシゴシ)。
最終的にはクロはおなかも触らせてくれました(*5)。一ヶ月半かかりました。
あとから思うと、クロの中での様々な葛藤が態度に現れていたようです。
初日、彼女は番犬としての立場上、目の前を通る見知らぬ人を黙って通すわけにはいかなかったのでしょう。本気で怒っていたのなら私の足には穴が開いていたはずです。
やがて、吠えなくてもいい相手だとわかったものの、意地を張っていたように思えます。「今さら急に仲良くするのもカッコつかないし...」。私がクロの前にしゃがみ込んだとき、頭突きで来たのは、そんな気持ちの表れだったように思います。本当にイヤだったらかみついてきたことでしょう。
触ろうとしたときに怒りの表情を見せたり唸ったりしたのもそう。「気を許していいのかな」という不安、「この前あんなことしちゃったから、いまさら」といういじっぱり、「気を許したら報復されるんじゃないか」と言う恐怖。そういったものが日替わりで表れていたのがあのころのクロの態度だったと思います。
(*1)お、腹筋鍛えてるな、と思ったものです。
(*2)クロという名前らしい。
(*3)配達がまだ二三軒残っていますから、午前中は犬を触るわけには行きません。
(*4)このころ、私が立ち去りかけると降参のポーズを取ろうとしたり、逆に降参のポーズを取るクロに触ろうとすると歯を見せてきたり、複雑な心理が垣間みえました。
(*5)「降参」のポーズを取ってくれたということです。メスでした。
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