作文 私と八ヶ岳

 私と八ヶ岳には3つの出会いがあったと思っている。

 まず第1の出会いは大学の時である。私は地質学を専攻していたのだが、卒論のテーマが八ヶ岳の岩石であった。特に考えがあって選んだのではなく、2年生の終わりに先生から「こんなのどうだ」と提示されて、はぁそうですねぇ、ぐらいの感じで決めたのだった。
 ところがちょうどその頃スランプに陥った私は何をやる気にもならず、卒論の調査も当然身が入らなかったのだった。地学の調査というのはいわゆる「現場百遍」なのだが、それには遠く及ばないような回数しか私は行っていない。それさえも、調査を口実にドライブに出かけていたという方が実態に近いかもしれない。道は適当に曲がりくねっているし。

 このころの八ヶ岳に関する最大の思い出といえば、美し森の駐車場(交差点脇ではなく売店があるところ)で車を停めて泊まっていたらパトカーが来て職務質問されたことであろうか。
 4年生の終わりに東京都の教員採用試験に合格してしまったため、おざなりの卒論を提出して私は大学を出た(うーむ、見る目がないぞ、東京都)。八ヶ岳とのつきあいも一度は切れたのだった。
 このころ、八ヶ岳は私に特に影響を及ぼす存在ではなかった。清里についても、山の中に忽然とおみやげ屋さんが群れ並ぶ不思議な町、という認識であった。しかしこの第1の出会いがあったからこそ第2、第3の出会いにつながるのである。人生、わからないものである。

*  *  *  *  *

 第2の出会いはその5年後。
 私は教員の仕事を辞め、大学の工学部化学科に通いはじめた。理由はいろいろある。主なものは、教員の仕事に行き詰まりを感じ、別の進路を探そうと思ったことと、成果が目に見える分野の勉強がしたくなったことである(地学ってのはその点どうもねぇ…)。
 ところが化学の勉強はすぐにつまらなくなってしまった。テクニック的なものは確立されていて、直接世の中の役に立てそうな勉強である。しかしワクワクしないのである。むしろ合間に取っていた「生態学」だの「系統分類学」だのが楽しみになっていた。

 (あとから思うに、きわめて狭い範囲だけを深く深く掘り下げて行くことに違和感を感じたのであろう。もちろん、それだから化学の最先端は地学と違ってかなり深いところに達していて、だからこそ目に見える成果がいろいろあがっているのだけど、深井戸の底を掘り下げるのはどうも私には性にあわないらしい。浅くても広い池のほうが泳ぎやすそうだ。ということだったんだろう
 しかもアルバイトで塾で教えていたのだが、これも楽しみなのである。…わからなくなってしまった。自分は何をすればいいのだろう。

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 「山ごもり」でもしてみようか、そんなことを思いついた。ほんの思いつきである。じゃあ、少しは様子のわかった八ヶ岳にしようかな、あそこなら単独で入ってもクマに食われる心配もないはずだし。その程度の考えで、7月初旬の八ヶ岳に向かった。
 どういうわけか、このときは車の窓を開けて走ろうと思った。そうしてみるといろいろな音や匂いが入ってくる。自然にスピードも控えめになり、まわりの景色もよく見えてくる。八ヶ岳の、いままで気付かなかった部分が急に見えてきた。
 そのころ、清里の「八ヶ岳ふれあい自然センター」はなく、いまの「やまねミュージアム」の建物が「ネイチャーセンター」になっていた。「自然史博物館学」も楽しみな授業だったから寄ってみた。そこでは「標本」ではなく、生きた自然が展示され、研究されていた。目からう○こが落ちるおもいがした。(*1)

 松原湖から八千穂にのぼる道で、道路の真ん中に出ているシカを見掛けた。ゆっくり近づくと、20mぐらいのところで逃げていった。シカがこんなに簡単に見られる動物だとは思っていなかった。
 山道を歩いた。足の裏全体、指まで使って歩いていることに気付いた。えらく健康的な歩き方をしているなと思った。
 都会から、文明から1歩、いや半歩踏み出すだけでこんなに違う世界があり、人はこんなに健康になれることに驚いた。
 一体、文明って何なのだろう。文明のためのツールとなりうるところに魅力を感じて化学に足を踏み入れたのだけど、それはそんなに魅力的なことなのだろうか。わからなくなってしまった。

(*1) 「ふれセン」に統合されたときに自然系の展示は縮小されてしまいました。残念です。「やまね」もヤマネに偏っており、私は不満です。アカネズミやハタネズミもかわいいのに。

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 山道を歩きながら、こんなことも考えた。自分は何をするべきなのだろう。何をしたいのだろう。何ができるのだろう。もちろん、そんなことを考えるために来たのだけれど、最後の「何ができるのだろう」ということについてはそれまでよく考えたことがないことにも気づいた。
 もちろん、化学も文明も必要なことに違いない。しかしそれだけでいいのか?偏っているのではないか?いま私はそのことに気付いている。ならば、(他の誰でもない)私がするべきことはその方面にあるのではないだろうか。博物館の学芸員(*2)、造園技師(*3)などの仕事が浮かび上がってきた。
 教える仕事も好きだ。もちろん、一度はうまく行かずに放棄した仕事だ。 当時は自分のダメなところや苦手なことばかり考えて潰れていった気がする。しかし今や、教えたい気持ちがあふれていることに気付いている。もちろん以前同様の苦手事項があるにせよ、実は差し引きそれほどのマイナスではないのではなかろうか。

 とはいえ、一度は放棄した仕事である。どの面下げて戻れるか、という躊躇があった。ところが、八ヶ岳からは離れるが、以前一緒に仕事をしていた先生が結婚し、2次会に出た時のこと。会う先生は皆、私がいずれ教職に戻ると思っているようなことを言うのだった。なんだ、気にしているのはわたしだけだったのね。
 斯くして2年後、私は私立中学校の講師という形で学校の仕事に戻り、大学は夜間部に移ったのだった。(*4)
 このようにして、八ヶ岳の山ごもりをきっかけに、私は自分の使命を自覚するに到ったのであった。これが私と八ヶ岳の第2の出会いである。
 (うーむ、東京都、人を見る目があったのかもしれない。ただし早すぎたようだけど ^^;)

(*2) 学芸員資格に足りないのは、あと「博物館実習」だけです。
(*3) 公務員試験の情報を集めていたら、そんな職種があることがわかった。
(*4) 結局、熱力学がどうしても頭に入らず、単位が取れなくて「時間切れ退学」になってしまった。

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 第3の出会いは2年ほど前、ポール・ラッシュ先生との出会いである。
 ある日、気晴らしに車を走らせて清里に来た私は、小さな看板に気付いた。「ポール・ラッシュ記念館」。どこかで聞いた名前だな、あ、清里開拓の指導者だっけ、などと思いながら入ってみた。するとそこには、清里開拓だけでなく、立教大学、聖路加病院、アメリカンフットボールと、多彩な活躍をした人であることが紹介されていた。
 「ポール・ラッシュ伝」を買って帰ってボチボチと読んでみた。わたしが「ポールさん」と言うのに対して、説明してくれる記念館の人は「ポール先生」と呼んでいたが、そのわけがのみこめた。なるほど、「先生」と呼んで尊敬するに値する人物である。

 もちろん、部分的には賛同できない部分もある。それにしても、多岐に亘る情熱的・献身的な活動は常人に真似のできるものではない。そのような人物はどこか遠い、私とは無縁の世界にしかいないもののように思っていたが、意外と身近なところにいたことを知り、目の覚める思いがした。若い頃は決して聖人君子ではなかったという点も、手の届かない存在ではないと感じられる要因かもしれない。
 座右の銘、"Do your best. And it must be first class."(最善を尽くしなさい。そして一流でなければならない。一流でなければ、あとからついてくるもののお手本にならないから)。なかなか実行できることではないけれど、心の隅に置いておきたい言葉だと思った。
 今の私は、そして多分将来の私も、足元にも及びはしないけれども、少しでも近づきたいと思う。もちろん、形は大きく違うだろうけれども。

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