text by Toshio Mizuno●● |
藤子・F・不二雄という空白 藤本先生がお亡くなりになったのが1996年9月23日(享年62歳)。すでに8年の月日が経ってしまいました。 当初、先生がお亡くなりになったという事は、ファンも、周囲に居た関係者も実感が湧かなかったと思うのです。TVの「アニメ版ドラえもん」はそのまま続いていたし、毎年春公開の「映画ドラえもん」さえ休む事無く毎年続いていたのですから。そして、しばらくするとドラえもんグッズのブームが起こりました。さまざまなグッズはサンリオのキャラクターグッズの様に続々と発売され、関連書籍や再編集版の原作コミックスも大量に出版されました。ブームの最中は、大人になってしまったかつてのドラファンが、懐かしさから原作を手に取り、新たにドラと接する現代の子供達は、可愛いドラえもんグッズに夢中になりました。 ブームも落ち着き、ドラえもんバブルが弾けると、そこにくっきり一つの空白が見えて来たのです。藤子・F・不二雄という空白です。 多くの原作ファンが指摘しているように、現在TVで放送されているアニメ版ドラえもんの新作(原作に無い、脚本家創作版)は、藤子・F・不二雄原作からは大きくかけ離れたクオリティーになっています。どうしても過去の原作の焼き直し的作品や、ドラえもん世界から逸脱した作品になってしまい、原作の持っていた「ストーリーの裏にあるF的テーマ」が見えない作品が増えてしまいました。脚本家の多くは「新しい道具」と「短い時間での起承転結」を創るので精一杯。先生の身近にいた関係者やアニメスタッフは、原作ファンより先に気付いていたに違いないのです。藤子・F・不二雄という名の脚本家より優れた、ドラえもんを作れる脚本家は居ないという事を。 それは映画版ドラえもんにも言える事でした。スタッフの皆さんが必死で先生の空白を埋めようとしていたのは、多くのファンにも伝わっていたのです。短編原作の一部を膨らませて長編にする手法は、藤本先生も使ってらっしゃったものです。後に残されたスタッフの皆さんは、この手法をこう考えていたと思うのです。「下地に藤子・Fのテイストを敷く事でドラえもんの世界観を守り、新しいオリジナルストーリーに膨らませる事が出来れば!」しかし、それを成立させるには卓越したストーリーテラーとしての技量と「F的センス」が必要だったのです。 実はこの「F的センス」ってのが厄介な物でして、多くの藤本作品を読んでいるファンなら理解してくれると思うのですが、「セリフの独特の間」「キャラクターの性格のクールさ」「ストーリー展開の絶妙な省略とテンポ」「科学と空想のバランス」などが藤本作品の大きな特徴。当たり前ですが、これらの「F的センス」は作家の個性であり、第三者が簡単に真似できるものではありません。特に「ドラえもん」という作品は、絵も記号化されており、舞台やキャラクターの設定も雁字搦めに固定されています。この作品の命は「F的」センスが全て!と言っても過言ではないのかもしれません。 「藤子・F・不二雄という空白」=「F的センスの欠如」 最近この空白はだんだん大きく、目立ってきている気がします。 「2005年の春は長編映画ドラえもんが制作・公開されない。」 突如流れたこのニュースは、何だかドラえもんが「もう走れない。ちょっと休ませて。」と言ってる様で、複雑な気分になったのです。長年ドラえもんに関わってきたスタッフの皆さんの「F的センス」へのご苦労を考えると胸が締め付けられる思いがします。限界だったのでしょうか。 今になって改めて、この空白がとても大きく、簡単には埋められないのだという事をみんなで再確認することになったのです。 |