原作漫画 & アニメーション●●
vol.3
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1999.6.7掲載●●

text by Toshio Mizuno●●
Illustration by Harumi Mizuno●●

藤子不二雄コンビ解消と
ドラえもんの関係

藤子不二雄という名前の漫画家が、二人のコンビだったと子供の頃知った時は、結構ショックでした。当時、ドラえもんオバケのQ太郎を愛読していた僕でしたが、一つの漫画を二人で描くという状況が理解出来ず、とても不思議だったのと、自分が想像していた作者像と違い、思いも寄らない「二人組」という形だった事への驚きが、当時の僕にはとても大きなショックだったのです。

後に結局、二人でそれぞれ違う作品を担当していたと解ると、妙に納得しました。言われてみると作品によって絵柄やお話の感じが違うし、怪物くんドラえもんでは全く感触が違うというのは、小学生の僕でも気づきますからね。

次に気になったのが、藤子不二雄コンビのどちらが「ドラえもん」を描いているか?という事でした。お二人のお顔は、当時の漫画掲載誌によく出ていたので、「やさしい、繊細な印象の藤本弘先生(藤子・F・不二雄)」と「サングラスをかけている、丸顔のおじさんの安孫子素雄先生(藤子不二雄A)」というお二人の区別意識はあって、失礼な話、安孫子先生にはなんとなく怖い印象があったのです。ですから、「ドラえもん」は藤本先生と解った時は、変に納得したし、安心したのです。「やっぱり思った通り!」だと。

藤子不二雄コンビは小学生の頃から二人で漫画を描いていました。学生時代のデビュー作「天使の玉ちゃん」から、上京、トキワ荘時代まで、ふたりは合作で作品を作ってきたのです。しかし、プロとして多くの作品を生み出すうちに、二人は次第にバラバラに作品を担当する様になります。二人の絵柄も、作品の内容も、だんだん違いが大きくなっていき、お二人は仕事と私生活のリズムさえもが、大きくかけ離れてしまったのです。

ドラえもん」は当初から藤本先生(藤子・F・不二雄)の作品でした。ドラえもんという作品がヒットすればするほど、「藤子不二雄=ドラえもん」というイメージは定着していきます。安孫子先生はそんな状況に違和感を感じていたのかもしれません。安孫子先生は、ある本のインタビューで次の様に語られています。

藤本君はああいう生活ギャグをずっと描いてたけど、僕は傾向が変わってきた。自分で変わったなと思ったのは、『魔太郎が来る!』を描いたとき。あとブラックユーモアの短編を描いたっていうのも転機になってる。〜(中略)〜昭和63年に名前を分けたっていうのは、なんとなくだったんです。作品でも生活でもだんだん僕らの傾向が違ってきて。藤本君は生活そのものもピシッとしている人で、たまに映画を観るくらいで、あとは仕事してまっすぐ家に帰るという感じだったんだけど、僕は人間に対する興味が広くなっていろんな連中と付き合うようになって。お酒飲んだりゴルフやったりして、なかなかスタジオにいなくてね。藤本君は昼間仕事してるけど、僕は徹夜で原稿描きだったし、やっぱりお互いの作品の傾向も独自の形になってきてたからね。それに、僕がえらい過激なものを描こうと思っても、『ドラえもん』を傷つけるといけないから。で、ふたりでずっとやってきて、やることはやり尽くした。50まで漫画家やるとは思ってなかったから、あとはお互い好きなように、気楽にやろうよ、というのが別れた理由でね。いろいろケンカしたとか、ずいぶん言われたんですけど、そういう事はまったくなくて(笑)。僕らは独立って言ってたんだけど、僕はその記念として『少年時代』っていう映画を作ったし、『笑ゥせぇるすまん』がアニメになって新しい読者が増えたり、ある意味お互い非常によかったと思っているけどね。」
(別冊宝島409 ザ・マンガ家/宝島社)

昭和62年(1987)に、お二人は35年続いた「藤子不二雄」というコンビを解散します。安孫子先生のお話に出てきた「『ドラえもん』を傷つけるといけないから。」という言葉。これがお二人のコンビ解消の原因としては最も大きなものだったようです。一般世間において大きな存在になってしまった「ドラえもん」という作品。このドラえもんに、これからの作品の方向を縛られないために、また、藤本作品としての「ドラえもん」を守るためにも、コンビ解消が必要だったのでしょう。

幼なじみとの二人三脚をはずす原因になるほど、「ドラえもん」は大きく成長してしまった。藤本先生がライフワークとして取り組んだドラえもんは、それぐらい多くの人々にとって大事な存在になってしまったという事なんでしょうね。



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