MONKIの広告外論(第16講)

「J.B.のABS」

猿山義広(元2年D組らしい、3年生のときに転校、現駒沢大学助教授)

 J.B.ことジェームズ・ブラウン。私はとくに熱心なファンであったわけではないが、「パパ・ガッタ・ア・ブラウン・ニュー・バッグ(いまは亡きザップのロジャーがカバーしていた)」だとか「セックス・マシーン(しっかし、しょうもないタイトルだね)」だとかはけっこうよく聴いたし、勝新太郎をも凌ぐそのムチャクチャな生き方に対しては、それなりの敬意を払っていた。

 そのJ.B.が何とABS(資産担保証券)を発行するという。格付けはシングルAだそうだ。過去に生み出されたヒット曲から将来発生する使用権や販売権等のロイヤルティーを担保にしたこの手の債券は、2年前にデビッド・ボウイによって始められたそうだが、デビッド・ボウイなら許されても、J.B.には許されない身の処し方のように思えてならない。大きなお世話だとは知りつつも。

 何せ、正確な生年月日さえ分からないような男である。鑑別所でボクシングを始めた筋金入りの不良である。ドラッグとセックスが大好きな獣である。女房に発砲してしまうような常習的犯罪者あるいはルール不感症者である。(「愛しているから」というのが動機らしい。ということは、オレは女房を愛していないのかもしれない)

 にもかかわらず、J.B.が生き延びてこれたのは、その音楽が世界中の人々に愛されてきたからだし、既存の価値体系を超える価値をつくり出してきたからではないか。そのJ.B.が既存の価値体系そのものと思えるようなABSに還元されてしまうこと、そしてJ.B.本人が嬉々として年金を前倒しで受け取る姿を想像することが、本音をいうとたまらなく切ない気持にさせる。付け加えるなら、J.B.に失望したのはこれが2度目である。最初に失望したのは、カップ麺のCMに出て「ミソッパ!」とやったとき。そんなにお金が欲しいのか、と(再び)大きなお世話だとは思いつつ憤慨した。

 デビッド・ボウイなら許されても、J.B.はダメ、という見方が偏ったものであることは認める。だがしかし、例えば、小室哲哉には許されても、泉谷しげるには許されない領域というものだってあるように思う。それと同じことである。つまり、アーティストはファンに対して一貫した存在であってほしいのだ。J.B.がABSを発行するというのは、明らかにファンに対する裏切りであるように思う。うまく説明できないけども。

 (再び)だがしかし、間違っているのはファンの方かもしれない。J.B.は一貫してお金以外のものなんか求めてこなかったのかもしれない。少々冷静に考えれば、真実はむしろこちらの方にあるように思われる。
 そう割り切ってしまうと、自分自身がJ.B.に抱き続けてきた違和感も理解できる。(再び)本音をいうと、私はJ.B.の音楽にノッたことはあっても、それを美しいと感じたことは一度たりともなかった。「凄いけど、美しくない」というのが私のJ.B.観である。J.B.の美しくない部分というのは下劣さが剥き出しになっているところであり、プリンス(正確には元プリンスなのだろうが)との違いはそこにある。

 美しい音楽といえば、自分にとってNo.1はデオダートである。かつてはアントニオ・カルロス・ジョビンをプロデュースし、その後CTIから何枚か革命的なレコードを出し、クール・アンド・ザ・ギャングのプロデューサーを勤め、良質なソロを発表し、瞬く間に忘れ去られたブラジル人である。ディスク・ユニオンで働いている私のゼミ生によると、デオダートの中古盤は悲しいぐらい安値で取り引きされているらしい。それを聞くと、(再び)たまらなく切ない気持になる。

 「ツラトゥストラ」も「ラプソティー・イン・ブルー」も嫌いじゃないけど、それ以外のどうでもいいブラジル流フュージョンがとくに気に入っていて、音質の悪いラジカセでそれを聴きながら海辺でビールを飲む喜びは格別だった。

 以上のようなことをそのゼミ生(彼はJ.B.大好き)に話したところ、次のようにコメントされた。「いやぁ〜、猿山先生って、本っ当に筋金入りの軟弱者なんですねぇ〜。」
 本人は皮肉を込めてそういったのかもしれないが、私にとっては、これは最大級の賛辞である。

17回目へ続く・・


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