MONKIの広告外論(第15講)

「喜文」

猿山義広(元2年D組らしい、3年生のときに転校、現駒沢大学助教授)

 政治については発言しないほうが無難なのだが、48netなら大丈夫と割り切って書く。何を書きたいかというと、まずは喜文である。フルネームは宮崎喜文。花をふんだんにあしらった化粧顔のポスターで妖しいことこの上なかった30才の都知事候補。事前に配付された選挙公報では、トップを飾っていた喜文とその下の津田宣明だけがやけに目立っていて、他の候補者は一様に印象が薄められていた。
 結局、喜文はドクター中松に次ぐ票を獲得し、泡沫候補の中ではまあまあの順位で都知事選を終えた。21世紀の東郷健ではないかと勝手に想像していたが、選挙公報に書かれた内容は意外にマトモで、今後の選挙ではけっこう票が伸びるかもしれない。

 都知事選を終えての率直な感想は、どんなに著名な候補者であっても、地方人が都知事になるのは難しいということ。具体的には明石氏や舛添氏では勝てないだろうということ。これに対して鳩山氏、柿沢氏、石原氏は、音羽のおぼっちゃま、下町の秀才、城南の不良がかった成金息子という具合に、それぞれのパーソナリティに違いはあれど、いかにも東京人らしくて、それだけで都知事に相応しいように思えた。

 それにしても、あれほど石原氏が圧勝するとは思わなかった。石原氏が提示したのは、具体的な政策というよりは古典的な価値観であり、そんなものが票に結びつくとはとても考えられなかった。政策としては柿沢氏のほうがより具体的であり、また価値観についても、将来を見据えた価値観としては鳩山氏や舛添氏のほうが魅力的ではなかったか。じゃあマスコミがいうようにリーダーシップかといえば、石原氏の自民党時代の行動を考えれば、リーダーシップを発揮したというより勝手気ままにやっていたという印象のほうが強く、実績だけを見れば明石氏のほうがまだリーダーシップを発揮してきたといえる。

 石原氏の勝因は、おそらく「親父臭さ」にある。ここでいう「親父臭さ」とは、石原氏が著作のサブタイトルで使ったフレーズでもある「息子よオレを超えていけ」的メンタリティーのことであり、有力候補者の中でこのフレーズが似合っていたのは、たしかに石原氏だけだった。父親、正確には父親像が不在の現代において、立候補者の中で最も古典的な父親らしい石原氏が支持を集めたと考えれば、あの圧勝振りはどうにか納得できる。とにかく、あれは断じてリーダーシップの勝利ではない。

 ただ、次のようなことはいえると思う。それは「育児をしない男性を、父親とは呼ばない」というポスターが何の抵抗もなく受け入れられるようになったいまも、古典的な父親あるいは家長であること、少なくともそれを真面目に演じる意思を持つことは、リーダーとして推されるための必要条件であるということである。

 私は現在40才(同い年なんだから当然か)。2人の娘(7才と4才)を持つ父親であるが、家長としての威厳も、メンタリティーとしての「親父臭さ」も皆目持ち合わせていない。だが、それは私だけではない。同世代の男性のほとんどすべては、もはや古典的な父親ではありえない。だからといって「育児をしない男性を、父親とは呼ばない」的な発想にも付いていけないし、喜文のような思い切りもできないだろう。だとしたら、自分たちの世代なりの父親像を新たにつくっていくべきなのかもしれないが、それももう「すでに時遅し」の観がある。

 だから、自分たちの世代からリーダーは出てこないと思っている。政治の世界に限らず、ビジネスの世界でも、学界・論壇でも、元気なのは40代中頃か30代中頃の世代であり、ちょうど40ぐらいの世代は不思議と見当たらない。同学年の原辰徳や前田日明には期待しているのだが、かつての王・長嶋や馬場・猪木のようなリーダーシップは望めない。最近では、むしろ女性のほうがより家長的であったりするのだから、期待すべきは同世代の女性リーダーの登場かもしれない。こんなふうに書いていると男としては何となく悲しい気分になってくるが、父親であることが自分のアイデンティティーの中心にこないことを、私などはもっと悩んだほうがいいのかもしれない。

 現在、区議選の真っ最中であり、私の古い友人が渋谷区議に立候補している。私もほんの少しだけ協力してはいるのだが、同い年の彼には前述したような「親父臭さ」は皆無である。そのことが好ましくもあり、また不安でもあり、結果が気になるところである。

16回目へ続く・・


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