MONKIの広告外論(第6講)

「べちゃばいごりーうぉう」

猿山義広(元2年D組らしい、3年生のときに転校、現駒沢大学助教授)

 たまに、ホントにたま〜にだが、「ベチャ・バイ・ゴリー・ウォウ」(1971年スタイリスティックスのヒット曲、最近では元プリンスがカバー)が聴きたくなる。

 根がド軟弱なせいか、甘ったる〜いソウルが今でも大好きである。例えば、デルフォニックスの「ラ・ラ・ミーンズ・アイ・ラブ・ユー」だとか、スモーキー・ロビンソン&ミラクルズの「ウー・ベイビー・ベイビー」だとか、スピナーズの「イッツ・ア・シェイム」だとか、インプレッションズの「アイム・ソー・プラウド」だとか、テディ・ペンダーグラスの「チューズ・ミー」(同名映画のタイトル曲、映画もなかなか面白い。
主人公のキース・キャラダインがDr.ナンシー・ラブを誘惑するところで、女性のほうが勝手に盛り上がってしまうのが可笑しい)だとか。こうやって並べてみると、つくづく自分は趣味が悪い人間だと思う。

 甘ったる〜いソウルの最大の美点は、スタイルとしては商業主義以外の何ものでもないにもかかわらず、営利主義的な臭いを感じさせないところにある(付け加えておくと、どちらも英語では‘commercialism’)。もう少し丁寧にいうと、これらの楽曲は度々複製され、あまねく世に普及していくが、商品としては追加的利得をストックとして定着させないまま、記憶だけを残して消えていく運命にある。甘ったる〜いソウルがCMソングに意外と不向きな理由は、この辺にあるのではなかろうか。

 実際、CMソングに何を使うか決めるのは難しい作業である。中には、何を考えてこの曲を選んだのか理解に苦しむCMもある。例えば、かつてのノエビア。やたらと飛行機のシーンが出てくるのは創業者の趣味(たしか航空自衛隊出身、タバコが大嫌い)だからよいとしても、使われる楽曲がフレディ・マーキュリー(AIDSで死亡)であったり、元歌が中森明菜(手首を切った)であったり、ミリー・リパートン(癌で死亡)であったりすると、いったい何を考えているのだろうと首を傾げてしまう。
もっとも、美は一瞬のものであり、つねに死や破滅と背中合わせにあることを主張したいが故の選択であるとすれば、これはこれでものすごい企業哲学ではあるのだが。

 個人的な趣味をいうと、はかなげな声の女性が歌う曲がCMソングとしては好きである。とくに好きなのは、東芝日曜劇場でしか流れない東芝グループの企業広告で使われている具島直子(美人である。飯島直子と比べても)の曲。好きなのだが、はたしてこのCMが東芝の企業業績に貢献するかといえば、それは難しい問題のような気がする。昔の「はし〜る、走る東芝〜、うた〜う、歌う東芝〜」のほうが儲かにつながっていたのではないか。
東芝グループの企業広告を見ていると、大切なのは地球環境であり、それを護るためなら大量生産型家電メーカーの1つや2つが潰れてもいいんじゃないかと思えてしまうのだ。もっとも、東芝グループが本当にそう考えているなら、これもまたすごい企業哲学であるが。

 今年4月の外為法改正以降、外資系金融機関・保険会社・コンサルタント会社のテレビCMが大量にオンエアされるようになったが、さすがというか何というか、CM音楽が一歩間違えると広告効果を損ねてしまう恐さを十分に知り尽くしたかのようなものが多い。アメリカン・ホーム・ダイレクトに代表される「これがあなたに知らせたい、あなたが知るべき情報です」的なその広告表現を目のあたりにすると、商品の欠陥性をムードで補おうとする日本企業の広告がいかにもふしだらに思えてくる。個人的には少々味気ない気もするのだが。

 外資系企業のテレビCMとしては比較的甘いムードを漂わせているメリルリンチ証券の企業広告(テレビ東京で午後11時からやっている経済中心のニュースの合間に流れている)でも、抑制すべきところはきちんと抑制されている。これを見た人は少ないと思うが、ダンス教室に通う熟年夫婦がダンスに興じているうちに教室を出て、外で踊り続けるというもの。
おそらく、秘められたメッセージとしては、豊かな老後のお手伝いということなのだろうが、バックに流れる音楽の余分な甘さは抑えられている。あの音楽が仮に「ベチャ・バイ・ゴリー・ウォウ」だったら、いまもってムードに弱い一部のド軟弱オヤジ(オレだ)は、現時点において金融商品の購入よりも奥さんとダンスを踊ったり、ホテル最上階のバーに飲みに行ったりすることを優先しかねないことを、メリルリンチ証券は知っているのである。

7回目へ続く・・


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