MONKIの広告外論(第3講)

「いかりや長介論序説として」

猿山義広(元2年D組らしい、3年生のときに転校、現駒沢大学助教授)

 いかりや長介(昭和6年生まれ、敬称略)が好きだ。いや、尊敬しているといったほうが正しい。何といっても、あのお化け番組「8時だヨ!全員集合」の創造主である。あれだけの期間(昭和44年〜60年)、あれだけの視聴率(30〜40%)をたたき出すような番組は、これからも現れないだろう。

 いかりや長介の何がそんなに素晴らしいのかといえば、驚異的な数字を上げていながら微塵も大御所的な雰囲気あるいはカリスマ性を身につけようとしないところである。植木等が伝説になり、萩本欽一がオリンピック閉会式の司会者になり、北野武が映画監督になっても、いかりや長介は一貫していかりや長介でしかない。文化に対する功労が認められる気配はないし、志村けんのような再評価とも無縁である。
 では、いかりや長介が「全員集合」終了後目立った活躍をしていないかといえば、これはもう大活躍なのである。舞台俳優として「恍惚の人」「三婆」、映画俳優として故黒澤明監督の「夢」、多数のテレビドラマ(「聖者の行進」や「踊る大捜査線」など)。なぜだか「ニュースステーション」にレポーターとして出演したり、最近ではテレビCMにも出ている。藤竜也との「キャベ2」「液キャベ」、あのキムタクとのJRA。そして、いまだにしつこくやっているCXの「ドリフ大爆笑」シリーズ。
こんな67才(間もなく)のタレント、ほかにいるか。

 いかりや長介に対する評価の少なさ(低さではない)は、おそらく彼がコメディアンとして特異な存在であるからではないか。いかりや長介の場合、適切な表現ではないかもしれないが、あえていうなら「コワモテの被害者」という役所が一番似合っている。笑いをとれる被害者は、例えばダチョウ倶楽部の上島竜兵のように、最初から「いじめられっ子」の雰囲気を漂わせるのが一般的なパターンだと思われるが、どう見てもいかりや長介は「いじめられっ子」ではない。
 にもかかわらず、いかりや長介を被害者に仕立て上げるには、加害者は通常の「いじめっ子」であってはならず、もっと徹底的に歪んだ精神の持ち主を設定する必要がある。この歪んだ精神の持ち主というキャラクターにもっともよくはまっていたのが荒井注、仲本工事の2人であり、ドリフ脱退あるいは解散後、2人が精彩を失ってしまったのは実はいかりや長介を失ったことに起因している。

 とにかく「ドリフ大爆笑」でよく流される、いかりや長介が風呂でアップアップするコントを見てほしい。悲惨といえば悲惨な光景なのだが、いかりや長介がコワモテであるためにまったく同情心が刺激されないので、涙が出るほど笑える。それにしても、とうに還暦を過ぎて、こうした映像を平然とオンエアさせるいかりや長介の神経は並大抵ではない。しかも、前口上を述べるいかりや長介の表情は真面目そのものであり、視聴者を笑わせようとする意図はほとんど感じられない。
 業界に友人が少なそうなところも魅力的だし、年をとることに無頓着そうなところもよい。たしかに年はとったのだが、それはたまたま地球が太陽の周りを一周したら1年が経過するということになっていて、どうやら自分が生まれてから地球は太陽の周りを68周ほどしたらしい、と構えているところがいいのである。

 仲は相当悪いらしいが、いかりや長介の芸風の一部は志村けんに受け継がれているように思う。CXの深夜に放送されている志村けんの番組中のコントは、志村けんを家庭における「コワモテの被害者」として設定している。加害者は主に2人の娘と息子だが、とくに娘を父親に対する無意識的な加害者として描いたのは志村けんのセンスのよさであろう。まったく娘という動物は、善良な父親にとってひたすら加害者でしかない。自分の経験をいうと、オネショは数えきれないほどされたし、顔を蹴られたり、下腹部に膝を落とされたりするのは日常茶飯事。食事中フォークを振り回されて、それが私の鼻に刺さり、流血事件に発展したこともある。
 また、このコントで不可思議なのは、息子役の山崎邦正が他の家族が標準語で会話しているのに1人だけ関西弁を話すところである。父親対息子という図式がドタバタな笑いに結びつきにくいことを計算して、見るからに歪んだ精神の持ち主と思われる山崎邦正にダメ押し的に関西弁で通すように演出していたとすれば、これはもう脱帽するしかない。
 もちろん女房だって最終的には加害者なのだが、これ以上は書かないほうが身のた めだろう。

 4回目へ続く・・


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