MONKIの広告外論(第2講)

「返す言葉もないが」

猿山義広(元2年D組らしい、3年生のときに転校、現駒沢大学助教授)

 「専門は何ですか」と聞かれると、いつもとまどう。頭脳があまり明晰ではなく、うまく説明できないせいもあるが、それ以上にその問題についての暫定的な結論さえ、いまだ見い出せていないという理由が大きい。もっとも、暫定的な結論すら見い出せないのはおまえの頭が悪いからだといわれれば、返す言葉もないが。

 とりあえず、簿記のテキストなどは書いている。旧福武書店(現ベネッセ)の日商2級工業簿記のテキストや、税務経理協会から近々出版される1級工業簿記のテキストの一部は私の手によるものである。
 広告についての原稿を頼まれることもある。最近では、朝日新聞社の『広告月報』6月号に「金融ビッグバンと広告」というテーマできわめて出来の悪い論説を書いた。(余談になるが、当時私は金融ビッグバンの中身をほとんど知らず、おまけに「長銀大丈夫論」をぶってしまい、はずしにはずしてしまった。その後、原稿の依頼はめっきり減った。)

 こういうと、会計と広告の2つの専門をもっているように聞こえるだろうが、本人は自分の専門はあくまでも1つのことにあると思っている。
 いうまでもなく、企業はお金を目的として活動している。会計はこうした前提に立って、フローとしてのお金である利益と、ストックとしてのお金である企業財産を正確に把握することに力点を置いている。

 ところが、現実をつぶさに観察していくと、優良な企業とは、そう簡単にお金に換算しえない大事な何かを断続的に創造している企業であり、そのうえでその大事な何かを結果的にお金に結びつけている企業であることがわかってくる。では、お金には換算しえない大事な何かとはいったい何であり、そしてそれはどのようなプロセスでお金に結びついていくのか。実をいうと、これが私の専門である。
 私の専門において、広告は企業が創造する大事な何かを社会に伝達し、お金に結びつけやすくする役割を担うものであり、会計は最終的にどの程度のお金に結びついたのかを測定する手段として位置づけられている。会計と広告というまったく異なる分野の研究をしながら専門は1つだというのは、そういうである。

 ただし、厄介なのは、大事な何かとは何かということは具体例でしか語れないことにある。例えば、「大事な何かとは芝松のもつ煮込であり、力士みそである」という具合に。
 芝松のもつ煮込や力士みそがなぜそうなのかは、以下のような事実に立脚する。
 事実1:私は芝松のもつ煮込や力士みそがいくらであるか知らない。いくらであってもかまわないからである。小学生の頃、タッパーウエアを抱えて芝松に買いにいったことが、昨日のことのように思い出される。
 事実2:8月28日、私が芝松で注文したもつ煮込は、その日最後のもつ煮込であった。同席したOB会幹事の数人は、その最後のもつ煮込に平然と箸を付け、うち1人は私が「それだけはやめてくれ」というのも聞かず、音を立てて煮汁をすすった。
 事実3:8月28日以降、私の配偶者はお土産にもらった力士みそのせいで、力士みそジャンキーになってしまった。最近では毎晩のように、「次はいつ芝松に行くのだ」と詰問されている。

 芝松のもつ煮込や力士みそが私のいうところの大事な何かであることは、これでわかってもらえたと思うが、肝心なのは芝松の広告物がこの大事な何かを十分に伝えているかであり、そして結果的に芝松の儲けにどの程度貢献したかである。ところが、こうしたことを正確に分析するための理論は、いまのところない。したがって、既存の理論を適当に手直ししながらいろいろと分析を試みてはいるのだが、これがちっともうまくいかない。
 もっとも、そう簡単にうまくいくわけもない。なぜなら、これは大げさにいうと企業が創造する容易に換金しえないような価値が利益や株価に結びつくメカニズムについての研究であり、経済の本質に関わるほとんどすべての問題がそこから派生するような難問中の難問だからである。

 私が自分の専門について暫定的な結論すら見い出せないというのは、以上のような事情によるものであり、決して私の頭が悪いせいではない。もっとも、自分の才能も省みずにこうした難問に手を出したのはおまえの頭が悪いからだといわれれば、返す言葉もないが。

 3回目へ続く・・


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