トリノへの道

2002年のソルトレイクシチーで開催される冬季五輪出場を狙ったが
夢敗れてしまったりむ記者ですが、
2006年のトリノに向けて再起を決意しました!
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2002年2月24日(日)・・・反省文(本人からの投稿)
ソルトレイクオリンピックも閉幕が近づいて来ました。

本大会には、東南アジア唯一の参加国でタイ国がわずか1名で参加しました。
それをテレビで知った時、とても悔しい反面、嬉しく思いました。
常夏の国で冬も雪もない国が参加したのは、とても誇りに思います。 私ももっと頑張れば良かったなと思う毎日です。

練習不足で、”参加することに意義がある”ということに踏み切ることができなかった。
参加するにはやはり国のためにメダルを取りたいという気持ちが心のどこかにありました。

本当に反省・後悔の毎日です。
来季こそマレーシアから参加者が現れるように心から祈ります。

本紙の見解
ならば、次回のトリノを目指してください


2000年1月12日(水)・・・体質強化
りむ記者が今シーズンの初滑りから帰ってきた。

「どうだ?」って聞いてみたら、 「夏場に野球やサッカーで鍛えた甲斐があって、滑ったあとの疲労度がまるで違います」 との返事が返ってきました。


1999年2月14日(日)・・・衝動買い
ちょっと前にりむ記者はニューボードを衝動買いした。 履き心地についてはまだ聞いていません。

買ったのはちょっと前だったが、書き忘れていたのを今さっきふと思い出したので、今日の日付で登録しておきます。


1999年1月11日(月)・・・命拾い
昨日、りむ記者は今シーズンの初滑りに出かけました。

華麗なボーディングの報告を期待していたが、現地は新雪吹雪の悪条件。 それにもめげずに敢行したものの、新雪に埋もれて遭難しかかり、 よその人に助けられてようやく抜け出すも精根尽き果て余力なし。 最後はボードを足にはく気力もなかったために、身体の下にボードを敷いて、 頭から突っ込む状態で傾斜を滑り落ち、ようやく命からがら下界に帰りついたそうです。

本人曰く死を覚悟したそうです。 まあ、無事でよかったよかった。

1998年4月21日(火)・・・前途多難を暗示するスピード違反
りむ記者がスピード違反で捕まった。 25キロオーバーで3点減点の処分を受け、反則金は1万8千円。 オリンピックの縁起かつぎであったゴールド免許証の権利も次の更新からはなくなって、ちょっと手痛いできごとだった。 スピードはボードの上だけにしておこうぜ!!>LIM

1998年4月8日(水)・・・求むスポンサー!!
オリンピック出場を目論むような一流選手になるためには、 超人的な肉体&強靭な精神力に加えて、豊富な資金が必要となってくる。 残念ながらりむ記者は、旅行のし過ぎ、うまいものの食いすぎのために金がない。 彼を応援してくれる方にお願いです。スポンサーになってください。 ちなみにスポンサー第1号として、 彼が日本で大変お世話になっている親代わりのご夫妻から5000円の提供を口約束していただきました。

1998年3月30日(月)・・・ちゃくちゃくと体力増進中!!
一休寺へのランニングや室内プールでのスイミングなどを開始。 また近々バイクマシーンによるトレーニングにも着手する予定である。 蛇足ながら俺もスイミングを始めました。

1998年3月11日(水)・・・そしてあほになれ!!
博文記者から以下のような報告が寄せられました。

LIMの今回の最大の成果はターンのときボードをずらすだけでなくうまくエッジに乗れるようになったことです。 これで多少固い雪質の斜面でもこなせることでしょう。 ちょこざいにもちょっとしたジャンプもやります。 あとは恐いもの知らずになって果敢にせめることが必要でしょう。 ちょっと頭ひっぱたいてあほにしましょう!

1998年3月10日(火)・・・まずは基礎体力強化
都築記者から以下のような報告が寄せられました。

今回初めてリムといきましたが、ターンなどは上手だし、さらにみがきをかければソルトレイクには間に合います。 ただ、気になった点は、午後になってちょっと疲れてくると何でもないことですぐにこけていたようで、 基礎体力が不足しているようです。日々の走り込みが必要だと思います。

1998年2月25日(水)・・・強力スタッフの参加
東○君が『目指せソルトレイクシチー』のスタッフに加わりました。

1998年2月15日(日)・・・イメージトレーニング
りむ記者が始動した。 「やってるか?」という俺の問いに対して「もちろん」という力強い返事だ。

本来なら清○君につきあって、 朝のランニングなどをこなしてほしいところだが、 今やっているのはイメージトレーニングだけとか。 イメージトレーニングのメニューの中には、記者会見の受け答えも入っているそうだ。

地に足がついた活動もそろそろ始めてもらいたい。

1998年2月13日(金)・・・はじめに
オリンピック中継に刺激を受けたりむ記者が決意した。
次回のソルトレイクシチーオリンピックで、 スノボーの選手としてマレーシア代表での出場を狙うと。

マレーシアのウインタースポーツの選手層は極薄。
帰国したときは、雪とはどんなものかを近所の人からたずねられるほどのお国柄だ。
実現すればマレーシア冬期五輪選手第一号の栄誉である。

ちなみに、マレーシアが世界のトップクラスの実力を持つバドミントンでは、 世界的な大会でメダルをとった選手には家が贈られたとか。
りむ記者も好成績をあげて豪邸をもらってほしい。 そのときは、みんなの別荘として活用だ。

無事に勤めていれば俺はその年は10年目のリフレッシュ。
マレーシアの国旗をふって応援してやろうと思う。

また同時にりむ記者のオリンピック出場までの人生を描いた映画制作も実現したい。
早速博文記者が脚本の構想を練っているそうだ。 まとまり次第ひろふみの部屋で紹介したい。