てのひらからすべりおちてゆく僕のリアル。昨夜のことがどうしても思い出せない。もう、行ってしまった。一生二度と会うことはないだろう。再び出会えたとしても、もう忘れているだろう。
そういう時間が経つ。今日が早く終ればいい、明日が早く終ればいい。この眠ったように穏やかな流れも、いつか急に瀑布に途切れて、終わりになる。その時を待っている。

愛していたよ。

遠い記憶がふいに浮かんで、それだけが鮮やかで、胸が痛くなる。それも、時々のことだ。記憶の時も、思い出した時も、同じように溶けて落ちる。同じ距離で遠くなる。
昔のことだ。
やっと二十六歳になった。どこに出してもリッパなオトナだ。

めったに鳴らない電話が鳴る。今の薄いつきあいはメールでくるから、電話を使うのは古い知人だ。親とか、思い出話と変わらぬ噂話と、たまになら聞いてもいい類の。
「トーヤ? 俺…、…井上です」
世間ずれしない、不器用な細い声。いきなり受話器の向こうでむせている。
背がぴりっと伸びた。
「イチ」
「うん」
「どうしたの」
「久しぶりで急なんだけど、頼みたいことあって。弟のことで」
「うん」
「あの、久しぶり。元気?」
「働いてる。そっちは?」
「うん、院は知ってたよね、まだ学生」
「いいな」
「よくないけどね」
知らない時間、どうしている?
話しても聞いてももどかしく、だんだん疎遠になる。イチは地元にいる。
「ニロは、高校か」
「うん…だけど」
「早いな」
ちょうど僕らが高校生だったころ、ほんのガキで。
「学校行かないんだ、やめたいって半年くらい」
「なんで」
「色々だろ」
「何してんの」
「家で…、あんまりいい状態じゃない。自分でもて余してるんだ。そういうの俺、何かわかるし」
「まあね」
「それであいつ、東京行きたいって言い出して」
「漠然と、何も無いよ」
「うん、それでも、何かしたいって言い出したからさ。バカだと思うけど、家にいるよりいい」
口調が強くなって、心労が知れた。イチが言うなら。
今も、声だけでも、僕の神様だ。
「いつ来る?」
「頼めたら、明日でも。ニロの身体はガラ空きなんだ」
「いいよ、夜、仕事終わったら拾う」
「…ありがとう」
「うち狭いって言っとけよ」
「知ってるよ」
イチも来た、昔々。少し、二人とも黙る。同じことを思い出した。
「扱いにくそうだな」
「何」
「ニロ。不登校の思春期のガキ」
「そうでもない、賢いやつだから。最低限しか話さなくなってるけど、迷惑はかけないと思う」
「わかってるよ。置いてやるだけだろう。迷惑なんか」
「トーヤなら言うこと聞くよ。トーヤに憧れてんだ、あいつ」
「忘れてるだろ?」
「忘れてない。電話してくれって頼まれた」
「そっか。会ってわかるかな」
「それは、わかるよ」
軽く笑った。

イチとニロは年の離れた二人兄弟で、同じ部屋で暮らしていた。今もそうだろうか。
夕方、灯もつけないで、ベッドの上でじゃれていた。もちろん、家に誰もいないはずの、短すぎる甘い時間。すぐ息が上がるイチを押さえ込むのは簡単だ。
「止め…もう、トーヤって」
くすぐったがって、じたばた身を捩っていたのが、急に止んで、
「ニロ」
小さな弟が、戸を開けたところだった。慌てちゃ余計ヘンなのに、イチはぱっと起きた。
「おかえり」
「ケンカしてんの、兄ちゃんたち」
「別に…、プロレス」
「ふうん」
ちょっと怒った顔をした、誤魔化されたり嘘つかれたり、子供は敏感だ。
それとも、セックスの匂いを嗅いだのかも知れない。僕はその時、めちゃくちゃ興奮していたから。
夏休み、プールに連れて行った、二人の弟みたいだった。ニロは知っていたと思う。キスしてるのを、見られた。走って逃げてった半ズボンの小さな背中。

電話の最後は黙りがちに、気まずく切れた。いつもそうだ。携帯番号の確認で終わりにすればよかった。
そして夜、眠れない。
おまえが来いって言いたかった。
声を聞けば会いたい。何年経っても、ココロは空を飛んで帰る。岐阜へ。
好きで好きで苦しかった。
髪も匂いも目も耳も指も、リアルに蘇れば気が狂う。
涼しい白シャツの頚もと。休み時間、廊下を歩くと、男も女もみんな知らず道を開ける、イチバンキレイなイチ。聖者の行進だ。
並んで誇らしかった。ふっと目を上げて、
「次は?」
隣にいたいだけで、選択授業にもぐり込んだ四限目。さっぱり理解できない物理II。
きりもなく、一緒にいた、たった三年が、全部押し寄せてくる。
忘れないと、生きていけない。

夕方、終業時刻を待って、壁の時計をずっと見る。デスクの上に出した携帯電話がいつ鳴るか。六時と伝えた。
緊張しているようだ。寝不足で身体は末端からダルイ。
「木下くん」
パーティション向こうのうるさい営業シマから、小夜さんが顔を出す。
「森さんに伝言」
人をメモ代わりに使うのは、それなりの気易さがあるからだ。二年くらいつかず離れずの、年上の女。このまま、いつか結婚するのかもしれないと思っている。会社の人たちもそう思っている。そういう関係。
「頼まれてた数字、表にして共有に入れましたって」
「場所とファイル名は」
「言えばわかるでしょう。急いでたから、全体会議前に見たいんじゃないかな」
「あ、ミーティング…」
全体といっても二十人そこらの、週例ミーティング。サッパリ忘れていた。
よろしくね、と忙しく戻りかけるまとめ髪の後ろ姿に、
「小夜さん、俺、今日出ないで帰る」
「えー?」
「森さんもゴメン、直接言ってもらえます?」
「んーじゃあ言っとくけど」
「すいません」
携帯が鳴った。ちょうど六時。
「じゃ、お先上がります。オツカレです」
口の中でごそごそ言いながら、電話を掴んで立つ。小夜さんの苦情の続きより優先度が高い。僕は自覚のある薄情者だ。第一、定時後に全体会議を設定する体制がオカシイ。

−はい木下
−トーヤさん
−ニロ、久しぶり、今どこ?
−東京駅です
−新宿まで出られる?
−たぶん
−中央線快速、オレンジ色の電車
−はい
−新宿でまた電話して
−はい
−俺が先に着く、待ってる
−はい、あの…すいません、急で
−いいよ、気をつけて、迷ったら電話しろよ
−はい、じゃあ、行きます
−うん
早く、会いたい。僕はカンチガイをしている。それも故意に。

南口の自動改札、出て左の券売機、携帯で指示しながら人の海を見渡す。何時でも恐ろしい混雑だ。金曜日の帰宅時間になれば身動きさえ妨げる。誰も彼も携帯に大声で話しかけて見分けがつかない、と思った。

見つけた。イチ。

−トーヤさん? …トーヤさん? 聞こえます?
きょろきょろと見回す。携帯を目の前にかざしてまたすぐ耳に当てる。
−トーヤさん?
僕は動けなかった。二、三メートルの目の前にいる。髪が少し伸びて額にかかる、ふらつく目が定まってさっと光る瞬間、僕の心がうれしくて震える、そんな簡単なことで。
記憶が混乱する。それは十五才のイチだった。服だって、古くさく見えるカーキのパーカーだ。
大きめのバッグをどさりと足元に落されるまで、切れた電話を持ったまま凍っていた。本当に、すぐ目の前にいる。
「似てるんでしょ。こんばんは、トーヤさん。久しぶりです」
笑った。生声まで同じだ。

私鉄の駅で降りてから十分も歩く。商店街を抜けて早稲田通りを渡ってからは、道が細く暗くなる。夜に、キンモクセイが匂う。黙って歩く。メシを食う間も、うまく話せなかった。寝不足のせいだ。ぼーっとして。
同じ道をこんな風に帰った。あれは夏で、まだ夜になるのが遅く、左から最後の西日が暑かった。狭い部屋をイチに見せるのがカッコワルクて気後れした。気にしないとわかっていても。
「ここの二階」
元は小さくとも一軒家だった土地に無理矢理建てたみたいなアパートだ。道際に誰か住人がずらり並べた植木鉢。階段を先に昇る。カラダをなるべく見ないように、見ると照れる。だってもうすぐ抱くんだ。たんたん軽い足音、イチは後ろについてくる。
イチじゃない、弟だ。
鍵を開ける、戸を押して灯をつけ、
「どうぞ」
中に導く。狭いタタキで、ちょっと頭を下げて前をすり抜ける、姿態と距離がまた記憶を開く。似ていすぎる。
台所とスクリーンで隔てた部屋が一つ。見回すほどの広さもない。うわの空、習慣的に、フロアランプを二つ三つ上げる。鍵やポケットの中身をがちゃがちゃと流し台に出し、ポットに水を汲んで火にかけた。
「見てないで、座ってて」
「あ、はい」
——どうしよう。二時間で、もう既にまったく正気じゃない。まともに見られない。思い出すより、戻ってしまった。苦しい若い恋のココロ。一生、魂に刻印されて、崇拝するあの姿。僕は無宗教の人間だけれど、置き換えればあらゆる宗教的概念が理解できる。偶像に跪くこともできる。
間違うな、弟だ。別の名前だ。ニロという。
ニロは、上着を脱いで、床に座っていた。手足が長く見える、細こい輪郭。
「コーヒー」
「すいません」
「遠慮しないで、楽にしてよ」
「はい」
「寒かったら暖房入れる、エアコンだけど」
「あ、大丈夫です」
けっこう素直だ。借りてきたネコ。定位置のパソコン椅子を回して、見下ろす角度から、初めて、心のどこかにフタをして、じっと見てみる。
こんなキレイな生物が二つとあるなんて理不尽なことだ。切れ長の目が二つ、鼻一つ、まっすぐ結ばれた口が一つ、その配置だけのことで。
黒いままの髪、えんじ格子のボタンダウンを襟元まできっちり止めて、藍が薄いジーンズはストレート。顔と骨格は遺伝子、仕草は環境因として、格好が今時じゃないんだ。これはむしろ僕らの服だ。
「アニキの服だね」
「そうです。似てるでしょう、よく言われる」
「似てるよ」
「驚いた?」
「驚いたよ」
「うん、驚いてた。今も、好きなんだね。すごく」
「えええ?」
マズイ。下から見上げられると…、心臓が壊れる。熱くなる。
——どうしても見分けがつかないんだ。
指が、組んだ脚の頂点を捕らえ、膝から上へそっと昇ってくる。
「僕はイチだよ」
「何…」
「あんたが好き」
脚を開き、身体を割り入れて間近に立った。顔の上から落ちてくる、細かいキスを払うことが出来ない。
「信じて。僕はイチだよ」
「信じよう」
これは卑怯な取引だ。こいつは全部知っていて、逃げられない籠で包囲した。誘惑に、乗る。
キスが慣れてる…。すぐ口を開いて舌を入れてきた。唾液が混じって滴る。性急さと、乱れる息の熱さは、かわいい。
シャツのボタンを下から開くと素肌だ。腹から腰へ、背中へ。両手に伝わるなめらかさと、その下で反応する筋肉の秘かな震え。アタマが白くなる、長いこと、これが欲しいものだと夢に見た。イチを…、抱いて、泣かせて、どうしてそうしなかったんだろう。
「んん…」
立ったまま、唇と首に回した腕だけを支えに、がくがく揺れた。凄い。
「もういきそう?」
「まだ、だけど」
ジーンズの前を開く。熱がこもった発情の匂いがして、赤い勃起が跳ねて出てきた。そのまま腰骨と裸の脚を撫でながら脱がせる。目の前の若いペニスを軽く舐めると、泣き声を上げて腰を引いた。
「どうしたい? 口はイヤ?」
左脚に跨らせ、指で先端を弄びながら、首筋を伝ってキスに戻る。シャツの影に隠れた胸も脇も敏感だ。欲情した顔を見るだけでこっちはイキそうになるのに。
「イヤじゃないけど、あんたの、まだ出してない」
「いいよ」
見られながらキツイ下を解放した。こんな興奮したことない。そこを擦れ合わせるように、二人が動いた。唇と腰で繋がってうねる。
「うう…」
痛いんじゃなく、感じるんでもなく。鈍く熱い固体の感触。
「すごい、イイ」
「うん、いい…」
「後ろもして」
背中を抱く僕の手を尻に導いた。指を沿わせて、もっと奥に進む。
「あっ、あっ」
探り当てた瞬間、指先を食い締める収縮が起こり、背がぐっと反った。
「いっちゃう…」
「俺も」
腰を何度も前に押しつけ、脈動が腹に伝わった。射精の雫にぬめった僕も、遅れて出した。
きつく抱き合った身体の谷間、荒い息の下で、二人が混ざり、服に染みて広がった。樹液のアクの匂いが余韻を責める。

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