「バンドでもやんないか?」
1988年の春。
首都圏から大阪に転勤してきて間も無い大矢洋一と私(森雅史)の何げない会話の中で,突然大矢が切り出した言葉。
全てはここから始まった

その晩大矢は当時住んでいた会社の独身寮を駆け回り,ベースの谷本秀典,ドラムスの西野繁成,キーボードの原口順二,ギターの高橋良和,戸澤孝大を見つけてきた。
次の日彼は今度は社内を巡りボーカルの粟津恵子石田倫子,キーボードの岡本砂恵をバンドに引っ張りこんだ。
かくしてわずか1日にして「大矢バンド」が結成されたのである。

そして1988年7月。会社のビアパーティーにて初の演奏を実施。
この時の演奏曲目は「勝手にシンドバット」「フレンズ」「恋のバカンス」そしてローリングストーンズのヒット曲と演歌を組み合わせた企画モノ「ジャンピングジャック星降る街角」など。
観客の反応はともかく,演奏している我々の方は大満足の初ライブであった。

1988年11月。クセは強いが腕は確かだったギターの高橋が突然の退職。
音の要であった彼の脱退によりバンドに暗雲が立ち込め始めた時,幸いにも大矢や私と同期入社で学生時代からバンド活動をしていた両角俊朗が人事異動で九州から大阪に戻ってきた。これ幸いとばかりに早速彼に楽譜のコピーを送りつけ本人の意志など全く無視して強引にバンドにひきづりこむ。

1988年12月。ギタリストの交代というアクシデントがあったものの予定通り会社の文化祭での演奏を決行。
演奏曲目は「歓びの唄(交響曲第九)」「シェイクヒップ」「シュールダンス」「みんなのうた」など。


1989年春。女性ボーカルの1人石田倫子が退社。代わりに木村美鶴が加入する。
新しい女性の加入でバンドの雰囲気がパッと華やぐ。ちょっとだけ。

この頃バンド名を変更。
内山田洋とクールファイブ」みたいな名前にしたかったので「パラダイス原口とプールサイド」と改名。

1989年7月。再び会社のビアパーティーで演奏。
演奏曲目は「トレイントレイン」「リターントゥマイセルフ」「六本木心中」「抱きしめてトゥナイト」そして山本リンダのヒット曲を綴った「リンダメドレー」。


1989年秋。看板ボーカリストの粟津恵子が退社。ギターの戸澤もバンド活動を卒業。
これによりバンドはますますコミック路線を突き進まざるを得なくなってしまった。

1989年12月。文化祭で演奏。
演奏曲目は「どろんこ道を二人で」「ファンタジー」「キスして欲しい」「グループサウンズメドレー」「クリスマスソングメドレー」など。つくづくメドレーが好きなバンドである。
またこの月山上洋史が転勤で大阪に帰って来る。
後に彼はドラマーとしてバンドに加わる事になる。

1990年4月。バンマス大矢が結婚。
その披露宴2次会でライブホールを貸し切り,「おめでとうライブ」を実施。
この時キーボードの原口がアラビア民族の衣裳で登場し大反響を呼ぶ。
以降彼はコスプレ路線をつっ走る事になる。

1990年5月。諸事情によりドラマーが西野から山上に交代。

この頃バンド名を現在の「ゼンザエース」に改名。
実力的にはステージの前座クラスでもまあ風邪ひかずにがんばりましょうと。そんな感じ。

1990年7月。3たびビアパーティーで演奏。
演奏曲目は「浪漫飛行」「どうにもとまらない」「踊るポンポコリン」「沢田研二メドレー」「星のラブレター」。

1990年10月。 三和銀行グループ(みどり会)主催の「第2回グリーンコンサート」に軽音楽部内の2バンドの合体ユニット「SONG ISLAND 465」で参加。ちなみにバンド名は会社の所在地「歌島」とその郵便番号に由来している。 軽音楽部にピッタリの地名。ちょっとうれしい。
総勢12名の多人数編成となったのに演奏曲目は「しゃぼん玉ホリデーのテーマ」「恋のバカンス」「年下の女の子」といつもとたいして変らない選曲。ちょっと悲しい。

このあたりから岡本砂恵嬢がバンドをサボり始める。 どうやら練習がじゃまくさいらしい。

1990年11月。パラダイス原口氏が神戸へ転勤。
バンド存続の最大の危機を迎えるが「神戸なら近いからまあなんとかなるやろ」とあまり説得力の無い理由で気にしない事にする。
キーボード奏者不在という非常事態を避ける為,取りあえず「岡本砂恵バンドさぼるなキャンペーン」を実施。みんなで彼女を見張る事にする。

時同じくしてバンマス大矢がなんとテレビ「新婚さんいらっしゃい」に出演。
これはいいネタができたと一人ほくそえむ。

1990年12月文化祭で演奏。 原口氏が就業後神戸(といってもなんと西区)から駆けつけるという離れ業をやってのける。
演奏曲目は「銃爪イントロ」「東京ドンピカ」「真夏の果実」と「ビートルズメドレー」,それに企画モノの「勝手に学生ザナイトクラブ」やオリジナル曲「私は木村」とかなり盛り沢山。

ちなみにこの時問題の砂恵女史も無事参加。ホッとしてキャンペーンを解除したとたん,また来なくなる。
トホホ・・・・

1991年4月。再び2バンド共同で「第3回グリーンコンサート」に参加。
ユニット名は・・・・面倒くさいから職業別電話帳を開いてめくれたページの一番上にある店の名前にしちゃえということになり,「あたりや呉服店」と名づける。
演奏曲目は「雨の御堂筋シャッフル版」「リンダメドレー」。

1991年12月。毎度お馴染み文化祭で演奏。
演奏曲目は「ホテルカリフォルニア」「翼を下さい」「六本木のベンちゃん」と「サーデューク」,「Say Yes」となかなか難易度の高いラインナップ。両角氏のギターソロ,原口氏のキーボードソロ共に一番いいところでズッこける。 ボーカルは気楽でいいがバックで演奏する方は本当に大変だと痛感。

演奏終了後山上氏が「自分の演奏に限界を感じた。」とバンド脱退を宣言。
学生時代からバンド活動をしていた彼にとって,「バンド」というものは僕らよりもずっと「重み」があるのだろう。

去る人あれば来る人あり。 この頃何の気まぐれからか「さすらいのキーボーダー」砂恵嬢がバンドに戻ってくる
未だにこの人の事はよく分からない。制御不能。取説が欲しい。

1992年4月。なんと我社の社長自らの御命令により取引業者を集めた「謝恩パーティー」の席上で演奏。
バンド初の「業務命令」による演奏となる。結構うれしい。
しかし演奏曲目は「年下の男の子」「思い過ごしも恋のうち」,それにローリングストーンズとアニメソングをつなげた「ジャンピングジャックお化けのアッコちゃん」といった相変わらずの内容。
実はこの翌週に行われる「第4回グリーンコンサート」に参加する事になっていたので,急遽決まった今回のステージ用に新曲を練習する余裕が無かったのである。
おかげで全く場違いな演奏になってしまったがこれは仕方あるまい。

1992年4月。上記に書いた様に「第4回グリーンコンサート」に参加。
当然演奏曲目も上記とほぼ同じ。


1992年11月。ギターの両角が仙台に転勤。
原口の時とは違ってまさか演奏の度に仙台から駆けつけてもらうわけにもいかないので諦める。 代わって違うバンドでギターを弾いていた八幡一哉氏に本格的に加入してもらう。

1992年12月。またまたまたまた文化祭で演奏。ここ1年間仕事の関係でバンドを離れていたバンマス大矢が久々の復帰。
演奏曲目は「ミスブランニューデイ」「いなせなロコモーション」,「うわさのウェルカムトゥハワイ」「あたいのレディーキラー」にオリジナル「ポクはみつる君」。
原口も当然のごとく神戸から参加しているがよくよく考えればこれはかなり凄い。

1993年4月。「第5回みどり会コンサート」に参加。バンマス大矢と同じ職場で働いている女の子と彼女の友人がバックダンサーとして特別出演。
彼女たちはジャズダンスを習っている上に,しかも米米クラブのバックダンサー「シュークリームシュー」の振り付けを完コピしているという非常にオイシイ人達で,当然演奏曲目も米クラのナンバー(「あたいのレディーキラー)」がメイン。個人的にはこの時の演奏が一番好きである。

1994年4月。「第5回みどり会コンサート」に参加。 演奏曲目は「かもめが飛んだ日94」「トゥマッチツイスト」にオリジナル「マンハッタンで待ってはったん?(ダイジェスト版」。前年に続きバックダンサーが大活躍。バックダンサーが主役で僕らが脇役というヘンなステージ。

その後メンバーのスケジュールが全く合わなくなり練習が殆どできなくなる。
バンマス大矢も公私共に忙しくなり,やがて東京へ転勤。ついに創始者がバンドを去ってしまった。
事実上のバンド休止。

1994年11月。部長兼新バンマスの谷本が東京に転勤。
これにより完全に止めを刺され,7年にも及ぶバンド活動に幕が降りる。

が・・・・・

1997年11月。原口が異動により再び大阪にカムバック。
時同じくして山上が東京で新バンドを結成したとの報を受ける。
これに刺激を受けた八幡氏と私は原口を誘い,次に八幡氏と同じ職場の佐藤晃,斎藤直子を引きづりこみ,最後に私の職場の同僚榎下徹の助けを借り再びバンドを結成。練習を開始する。

そして1998年11月。谷本が異動で大阪に復帰。
これにより見事ゼンザエースは復活を遂げる。

1999年7の月。5年の歳月を経て再び会社のビアパーティーで演奏。
こんな事はノストラさんでも予言できまい。
ビアパーティー終了後,新たに岡本嬢と同じフロアの伊藤栄美が加入。
フロアも同じなら大学も同じ音大卒。
これにより会社に在籍している音大卒の6割強を占有した事になる(大袈裟な)。
なんかアカデミックな感じだ。
伊藤嬢の加入によりメンバーも8人に増・・・・・あれ?
1,2,3,4,5,6,7,8・・・・おーい,9人いるぞー!?
いつの間にやら東京にいた筈の笛吹昌代が加わっているではないか。
そういえば最近大阪へ転勤してきたとかいう噂を聞いたな。
いつ誰がどういう理由で入れたのかよく分からんが「ワタシ的にはもう入ってます。」 との事なのでまあよかろう。
こんなバカバンドに付き合ってくれるならそれだけでも有り難い事だし, 最近原口の天然パワーもややトーンダウン気味なのでちょうど良いかもしれない。 とりあえずこれでメンバーは9人となった。
そしてこの瞬間から新生ゼンザエースは新たな一歩を踏み出す事となったのだ・・・・

このように軽い気持ちで始めたバンドが結果的には10年たった今でもなお続いているわけです。
バンドの産みの親である大矢洋一氏にあらためて敬意を表します。
これはあなたが作ったバンドです。ホントにホントにあなた無しでは実現しなかったバンドです。
大阪に戻って来たらいつでも参加してください。
そして今は東京にいる山上氏,両角氏。
いつかまた一緒に演りましょう。

そして最後にいつも僕達の演奏を聴きに来てくれる奇特な方々へ。
心からの愛と感謝の念を捧げます。
僕らはいくつになっても今と変らぬ気持ちで演奏し続けるでしょう。

そこにあなたがいる限り。

Home