第7話 「水割りを飲み、そして僕は思う」

(2000.04.29.掲載)




 先週、八丁平に行ったときに、湧き水を見つけた。
 八丁平林道脇の崖に生えている太い樹の根もとがぽっかりと「うろ」になっていて、そこから地下水が豊富に滴り落ちていた。元「八丁平の主」を自称する僕でも、恥ずかしながら今まで知らなかった(汗) それとも最近、根もとがえぐれて湧きだしたのだろうか。あるいは、雪解けのこの季節だけ、水が湧きだしているのかもしれない。
 僕はその一帯の地図を思い浮かべ、その付近には人工物が何もないことを確認した上で、その水を口に含んでみた。美味しい! その水は、ほどよく冷たく甘くて、すごく美味しかった。それで、その水をシグ(金属製の水筒、本当は燃料用ボトル)に詰めて持ち帰ったのだ。
 この水を使って水割りを作ると、うん、美味しいんだな、これが! 気のせいだろうか。やっぱり僕の身体は八丁平に馴染んでいるのかな、とか思ってしまう。何しろ、ここ八丁平は僕の学生時代の原点、ということは僕自身の原点のひとつだから。
 実は、その湧き水を見つける前に、僕は、以前ここで京都市有林の巡視員バイトをしていたころの水源で水を汲もうとしたのだ。管理舎から少し下った小さな河原。そのせせらぎを聞きながら、僕たちはここの管理舎で眠り、目覚めたものだった。でも、念のためによく調べてみたら、そこから上流にできた作業小屋の生活排水がこのせせらぎに垂れ流されていたのだ。しかも、その垂れ流しは「溜め枡」を設けることなく直接行われているのだ。要するに何も考えていない。
 くそっ、京都市役所め、本当に必要かどうかもわからん植林をして生態系を破壊した挙げ句に、これまた本当に必要なのかどうか、大いに疑問な林道で山を荒らし、その果てにはあの清流も汚してしまったわけなんだな? 強い怒りとともに、僕はすごく悲しかった。
 別に僕は、格別の自然保護主義者を標榜するわけではない。自然を破壊し、そこから得たものを享受している僕には、そんな資格はない。それは僕自身、よくわかっている。電気を使っているという、ただその事実だけでも、僕は自然破壊に加担しているのだ。でも、こういう無神経なやり方はやはり悲しい。
 スキー場だ、ゴルフ場だと、狭い日本に本当にこれだけ必要なのかと思うぐらいに、次々と開発が進むけれど、近年の経済的厳しさで撤退に追い込まれるところもまた多い。でも、一度開発されたところはそのまま朽ち果てるまで何十年も放置されるだけだ。あちこちで、錆びたリフトが放置され、荒れ果てた草原となったスキー場跡を僕は見てきた。そこが元通り(になるかどうか、わからないけれど)の自然を回復するには何十年もかかるだろう。
 全く開発が必要でないとは言わない。けれど、本当に必要なそれ以上の開発が行われているからこそ、撤退が生じてしまうのではないのか。だから、せめて撤退するときには開発業者に原状回復の義務を負わせるべきではないのか。もちろん、撤退段階では原状回復のための資金などないかもしれない。そのためには、開発許可の必須条件として原状回復のための預託金を課すべきではないのか。その開発がその地方行政に必要なものであるなら、それは開発業者と許可側の行政との折半でもやむを得ないだろう。それが無理であるなら、その開発を許可してはいけないのではないか。必要なのは、無責任な、不必要な開発を防ぐことなのだ。

 でも、人というのは勝手なものだ。
 これが八丁平だからこそ、僕はそう思うだろう。でも、これがずっと遠く離れた日本のどこかだったら、そこが開発の危機にさらされているとしても、僕は八丁平と同じ痛みを感じるだろうか。
 僕には自信はない。
 観念的な反対論だけで終わってしまう可能性を僕は否定できない。
 開発は、そんな人々の心の隙を突いて行われてきたし、今後も行われるだろう。
 それによって利を得る者がいる限り。

 この水割りを飲みながら、僕はそんなことを思う。